たかが日々の暮らし

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俺も行く  おしゃべり  匂いの話  柿盗人  草取り 

  友人  あれ知らない  眼鏡  万歩計  オウム返し 

 ホームページ開設記  掲示板への書き込み  予定表  憧れのハワイ航路 

 本の山  「わしが」族  アリの行列  漢字の由来    運転免許証取得 

 虫の知らせ  魚が好き  縫い針に糸が通せない  内なる自分との戦い 

 隠された十字架  どういう風に本を読むか  昔の暮らし  星空の話  昔の暮らし・その2 

 言葉遣い  昔の暮らし・その3    若い女の子  名前の呼び方 怒る妻 

 投稿日本人の心の故郷 老人性せっかち症  これで大丈夫ですか 

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 気候変動 靖国神社のこと(その二) 「石見町」という名前の由来 老人性早とちり症 

あれ何 古典の素養 あなたのものは私のもの 入院(その一) 入院(その二) 

もしもしかめよ 言い間違い聞き間違い 小学校一年生 「マジっすか」 今を生きる 

デカンショ 遠山に雪の残りて玉叩く 葬儀もいらない墓もいらない 田舎の選挙

 同時に二つのことができない ラーメンの安売り 農地解放 規則に縛られる 

一歩先を行く 三つ子の魂百まで 空瓶 殺してやる 押してダメなら 

先客あり ボケの始まり 殺してやる(その二) 桃栗三年柿八年 忘却とは忘れ去ることなり 

カラス頭 なんにもない正月 究極の歩数計 忍び寄る老いよ 男と女 舌の運動

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俺も行く

 最近特に、何事につけ妻の言うとおりに動くようになってきた。

「体育館へ行くのだけれど」

「俺も行く」

「本屋へ行くのだけれど」

「俺も行く」

「買い物へいくのだけれど」

「俺も行く」

「お風呂にお湯を入れるのだけれど」

「俺も入る」(別に一緒に入ろうというわけではありません)

 やることなすことすべてあなたまかせになってきた。

 

 私の親戚に「さやか」という名の二十歳代の娘さんがいる。この子が三、四歳のころはどこへ行くにも人と一緒に行きたがった。この子が昼寝をしているのをいいことに、私たち夫婦は、車でどこかへ出かけることにした。さあ出発しようということになったとき、この子が上着をしっかり抱えて、玄関に飛び出してきた。

「さやかも、さやかも」

と大声で今にも泣き出しそうな調子で叫んだ。私たちは仕方なく、さやかが着替えて出てくるのを待って、車に乗せた。

 

 私はこのごろだんだんあの頃のさやかに似てきたかなと思う。年を取ると小さい子供のように聞き分けが無くなってくる。どこへ行くにも人にくっついて行きたくなる。

 これから先、足腰も弱くなって車椅子生活になっても、寝たきりになっても、妻に邪険にされながらも「俺も行く」を繰り返しているだろう。

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おしゃべり

 女という種族はいつも集まっては何かかにかしゃべっている。

 ある日体育館に入ったらロビーのテーブルを囲んで、二十人ほどの女性たちが飲み物を飲みお菓子を食べ、大声で笑いながらしゃべっていた。

 一時間ほど体育館のデッキを歩いて降りてきたらまだしゃべっている。

 その後、トレーニングルームに入り一時間ほどして出てきたら、まだしゃべっている。

 その後、さらにシャワー室に入って汗を流し、出てきたらまだしゃべっていた。よく話すことがあるものだと思う。

 

 私の妻もよくしゃべる。しゃべる相手のいないときには、窓から顔を出して、窓下の花に何か話しかけている。「窓際のトットちゃん」なみだなと思う。

「花もね、ほめられるときれいに咲くのよ。女もね、ほめられるときれいになるのよ」

 女についてはともかく、花もほめるときれいに咲くというのはほんとうかどうかよくわからない。

 

 あるとき高速道路を車を走らせていた。妻は助手席で、胡坐をくんで、缶ビールを飲みながら調子よくしゃべりかけてくる。

「あれ見て御覧なさい。あの山の桜きれいだわね」

「あの蕎麦屋、見て御覧なさい。まずそうだわね」

 私が生返事をしていると、だんだん機嫌が悪くなってくる。相槌をうつのが途切れると、私の顔を覗き込んで

「あなた、ちゃんと聞いているの。居眠りしているんじゃないでしょうね」

 しかたなく、妻の言う方向に視線をやると、車の進む方向が少しぶれる。すかさず妻の言葉が飛んでくる。

「ちゃんと前を見て運転しなさいよ。あなたと心中するのはいやですからね」

 私は妻とは違って、しゃべりながら何かをすると注意力が極端に落ちる。

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匂いの話

 妻は匂いがよくわかる。花が咲いているとすぐにそばに近寄ってしげしげと眺めた後には必ず顔を近づけて匂いをかいでいる。

 季節の変わり目に、しまいこんでいた下着などを取り出すときには必ず顔を近づけて匂いをかぐ。わずかでも汗のにおいがするとただちに洗濯機に放り込む。

 私の体もよく顔を近づけて匂いをかがれている。少しでも汗臭いと下着ごと身ぐるみはがされることになる。

「パークゴルフで汗をかいてきたはずなのに汗臭くないね」

とか

「少し汗臭いよ。シャワーをあびたらどう」

「体調が少し悪いんじゃないの。歯磨きをしたらどう」

 妻の言う「少し」は「非常に」という意味で、「~したらどう」という提案は「~しなさい」という命令だと考えれば間違いはない。

 

 ある日サンプルで取り寄せた化粧水の匂いをかいて、ヨーグルトの上澄み液である「ホエー」が入っているという。電話をしたときに、そのことを会社の人に話すと

「よくおわかりになりましたね。実はそうなんです。でも今までそんなことをおっしゃったお客さんは一人もいらっしゃいませんでしたよ」

 といわれたと言っていた。

 知らない町を歩いていてもコーヒーの匂いを嗅ぎ当てて、コーヒー店にたどり着くことができる。

 その匂いを嗅ぐ力は訓練された警察犬並みだと思う。しかし本人は結構つらいものがあるとよくこぼしている。私について言えば、私のものを嗅ぎわける力は半ば壊れている。

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柿盗人

 私たち夫婦は鳥取県の米子空港でレンタカーを借りた。出雲は蕎麦どころではあるし、そのうちどこか蕎麦屋を見つけて食べようということにして島根県の「八雲立つ風土記の丘」公園を目指して出発した。

 中の海に浮かぶ大根島に蕎麦屋はあったもののまだ昼時には早くて、準備中の看板が出ているばかりで入れなかった。公園へ行く途中にも、到着した公園の中にもこれといった食事をする場所もなく、見物を終えた後で、安来市にある足立美術館と尼子氏の富田城跡へ向かった。

 途中でそれまで調子よくしゃべっていた妻が急に怒り出した。

「私、死にそうよ。どこか自販機を見つけて止めて頂戴」

 ところが、城跡へ向かう道は山道が続いていてあいにく、コンビも自販機も何一つ見つからない。そのうち富田城のふもとまで来たとき、おいしそうな実をたくさんつけた柿の木に出会った。

「とめて頂戴」

 というと妻はさっさと車から降りて、一目散に柿の木に走りよった。

「やめなさい。みっともない。見つかったらどうする」

 私の制止も聞こえないかのように、柿の実をもぎ取ってかぶりついた。

 私には経験のないことだが、お腹がすいて低血糖になると目の前が暗くなって今にも倒れそうになるのだそうだ。

 あのときに食べた柿の実ほどおいしかったものはないとその後しばらくは思い出して時々言っていた。

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草取り

  朝パソコンに向かっていると、妻が

「草が伸びてきましたよ。そろそろ草取りをしてください」

それでも黙って動かないでいると

「朝から結構な身分ですね。私はいろいろすることがあるんですからね。今日は午後から雨が降るそうですよ」

とやにわに掃除機をがたがた引っ張り出してきて掃除を始める。

 不承不承外に出て、雑草抜きを始める。私は花に詳しくないから、雑草と花の見分けがつかない。私は妻から日ごろ、

「あなたはタンポポと菊の違いもわからないんでしょう」

などというくらいのことはよくいわれている。

 しばらくして妻が私の仕事の成果を点検するために外に出てくる。抜いた雑草の中に妻の大切にしている花が紛れ込んでいるのを見つけると、

「あなた、この花はなかなか手に入らない珍しい花なのよ。なんということをしてくれたの。おおかわいそうに。代わりにあなたの首をひっこ抜いてやるから」

と花をせっせと植えなおす。

 私はあわてて自転車で近くのパークゴルフ場に出かけることになる。こうしたことが二、三回繰り返されて今では花壇の中の草は抜いてはならないということになった。

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友人

 兼好法師は友達にするのにふさわしい人の条件として三つを上げている。

1.ものをくれる人、2.医者、3.知恵のある人

 妻はけちではない。知っていて役立ちそうなことは、求められれば必ず教える。出し惜しみをしない。それに比べ私は生まれつき出し惜しみをするところがある。

 妻は医者ではないものの、昔の職業柄、薬や病気や体のことに詳しい。盲腸を切り取るくらい私にもできると言っている。私や妻の友人たちが妻の適切な助言を得て助けられたことは数え切れないほどある。

 たとえば抗生剤と消炎剤の違い。抗生剤は病原菌を直接たたくのに対して、消炎剤は病原菌によってできた炎症を軽くする働きがあるという。

 まぁどうでもいいことだけれどこんな説明をこともなくしてくれる。

 妻は幅広い知識とそれ以上に生活する上での大切な知恵に恵まれている。私は限られ知識はあるかもしれないものの生きる上で大事な知恵が足りない。

 妻には友達にするにふさわしい条件がすべて備わっている。私はすべて不足している。妻は人を大事にするから人からも大事にされるし、友人も多い。私については言うまでもない。

 

 二人の間にはまだまだたくさんの性格の違いがある。二人とも本が好きだという以外はほとんど共通点がないのに、よく今まで別れることもなく過ごせてきたものだと思う。たぶんだれもがみなそう思っていることだろう。

 私は妻に感謝し、妻を大切にしてもしすぎることはないはずなのに、私が妻にしていることといえば、時々台所で食器を洗うことぐらいのものだ。これはどう考えても不公平そのものだ。しかしありがたいことに妻はそんな風に考えている気配がない。

 私は妻に対して頭が上がらないはずなのに、妻をないがしろにすることがよくある。この世から去る前に「ありがとう」の一言ぐらい言っても罰は当たらないだろうが、私の性格からして、その一言ががたぶんいえないだろうなぁ。

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あれ知らない

 最近用事があって二階へあがったはずなのにその用事を忘れて、俺何をしに二階へ上がってきたんだろうと思うことがある。老化の第一段階の始まりといっていい。

 妻も一頃は私に「あれ知らない」とよく聞いてきた。「あれ」という代名詞で聞いてくるのが老化の第二段階かも知れない。

 「あれ」とは補聴器であったり眼鏡であったり車や家の鍵であったりする。

「知らない」というと

「あなたは私のことを何でも知っていなくちゃだめじゃないの」

 と普段はあまり使うことのない妙な理屈を持ち出してくる。

 

 以前道東に旅行にでかけたとき、途中で私たちは私たちの「小屋」に泊まっていた。夜中になって急に妻が「あれ」がないといいだした。それがないと旅行は続けられないし、新しく買い求めなくてはならないという。

 もしかしたら札幌に忘れたかもしれないということで、急いで私たちは「あれ」を探して札幌に戻ることになった。ところが肝心の探しているものは札幌にも見つからず、夜道をまた「小屋」に引き返した。

 「小屋」に戻って念入りに探したところ、ベッドの隙間から「あれ」なるものが出てきた。結局札幌と「小屋」との間の片道60キロほどの夜道をおよそ二時間、眠気と戦いながら車を運転して往復したのは無駄だったということになった。

 

 「あれ」なるものは身近なものが多いだけに、ちょっと何気なくおいてそのまま忘れることが騒動の原因になる。そこで最近は二人とも意識してものをおくようにしている。そのせいか妻は最近は探しものをして大騒ぎをするのが減ってきた。

 あるいは妻の場合、プールへ通って身体の筋力をつけているので、一緒に脳の方の筋力も鍛えられ、脳が活性化し忘れ物に強くなってきたためかもしれない。

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眼鏡

 毎朝パークゴルフに出かけるのに必ず七つ道具のようなものを用意する。年が年だけに飲みものは欠かさずに用意するようにしている。

 先日、玄関を出るときになってから、薬を飲み忘れていることに気付いた。そこで手に持っていた飲み物を玄関の下駄箱の上において、室内へ引き返して薬を飲んだ。そのままパークゴルフ場へ着いて飲み物を飲もうとしたら持ってきたはずの肝心のその飲み物がない。

 家に帰ってみると飲み物はそのまま下駄箱の上に置いてあった。これに懲りてその次の日には飲み物だけは忘れないように心がけた。ところがいざ現場についてプレーを始めようとするときに、何か違和感を感じた。そしてすぐにその原因がわかった。眼鏡をかけていない。

 以前には眼鏡をしっかりかけているのに、

「眼鏡がない、眼鏡がない」

と探し回ったことが二、三回あった。それに比べればましには違いないものの、私の運転免許証には、眼鏡をかけないと車の運転はできないと明記されている。

 眼鏡がないと手探り状態になるというほどひどくはないものの、眼鏡をかけないと車の運転をしてはならないことには変わりはない。にもかかわらず、私は車を運転したことになる。

 家に帰って

「眼鏡を見なかったかい」

 と聞くと。

「どこかで見た記憶がある」

といってすぐに探し出してくれた。置いてあった場所を聞いてすぐにどうしてそこに置いたのかそのわけがわかった。昨日シャワーを浴びる時に置いて、そのままになっていたのに違いない。

 そうすると私は丸一日近く何一つ不自由を感じることもなく違和感もなく眼鏡をかけないで暮らしていたことになる。

 眼鏡に気をつけると、今度は万歩計を忘れたり、ハンカチを忘れたりして、何かかにか代わる代わる忘れている。この前も眼鏡がまた行方不明になった。四、五日見つからず、もうだめかとあきらめかけていたころ何気なく窓を開けようとしたら、机と窓の間に挟まっているのが見つかった。

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万歩計

 私は軽い高血圧の症状があって薬も飲んでいる。医者には

「できるだけ歩くようにしなさい。できれば毎日一万歩歩ければいいのですがね」

といわれている。

 そこで万歩計を買うことにした。まずインターネットで万歩計を検索して、メーカー、値段、性能などを比較するためにプリントアウトした。

 安いのは五百円くらいから高いのは五千円程度のものまである。性能や電池の持ちもさまざまである。いろいろ検討して電池の持ちもよく、安くて、いろいろ性能も備わっているのに目星を付けた。

 今度は車であちこちの量販店に出かけて、一番安い店で購入することにした。わずか千円程度の品物なのに買い入れるまでに相当な時間と労力を使う。妻はあきれてみている。

「よくやるねえ」

 と口に出して言わないまでも、あの顔はそう思っていることをはっきり表している。

 私に比べて、妻は決めるのが早い。値段ももちろんだが、それよりもその品物が自分の気に入るかどうか。色や柄が自分の好みに合い、手持ちのものと組み合わせが合うかどうかなどで決める。

 いいということになれば、ためらわずに買い入れる。実際の値段はかなり安いのに手持ちのものと上手に組み合わせて着るので、

「どこで買ったの。高かったでしょう」

といわれたなどと機嫌よく話していることがある。

 妻は考え方が論理的で、決めるのが早く男性的なところがある。一方私は結論を出すのが非常に遅く、ああでもないこうでもないといろいろ迷った末に決める。決めた後でもこれでいいのかと思い悩む。非常に女々しいところがある。

 万歩計一つ買うにもたっぷり時間をかける。この性格は生まれて以来のものでなかなか直らない。

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オウム返し

 年を取るとともに思考能力が衰えてきて、相手の言葉をそのまま繰り返すようになってきた。

「おはよう」

「おはよう」

「いい天気だね」

「うん、いい天気だ」

「調子はいいかい」

「うん、いい調子だ」

「この漬物おいしいね」

「うん、おいしい」

 こんなふうにエンドレスに続く。そのうち妻がキレて

「なんか、ほかに言うことはないの」

「うん、ない」

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ホームページ開設記

 数年ほど前、かなりの年になってから物好きにもインターネット上にホームページを開いた。まずホームページを開こうという気持が起ったのが偶然とも言っていいようなものだった。

 「石見国・邑智郷の民話と言葉」というタイトルでもわかるようにある一地方の民話と方言を集めたホームページなのだが、私自身それほど民話に興味があるわけでもなく、民話が身近な存在であるというわけでもなかった。

 私の手元にある多くの本の中からある日たまたま私の故郷の民話集を手に取ったことからことは始まった。しかもこの民話集が印刷されたのは三百部ほどであり、配布された場所も私の故郷の地に限られていた。この民話集が私の手元にあることそのものが偶然といってもいいようなものであった。

 さて、この本を読み出すとこれがまた面白い。特に故郷の言葉が耳に聞こえるような感じで懐かしく夢中になって読んだ。ところがその本はガリ版刷りで作られたもので相当読みづらい。そこで、

「面白い民話だから、自分で読むのに読みやすいものしてみたい」

 ということで、この民話をパソコンに入力しプリントアウトして、手製の小冊子に仕立てた。せっかく作ったことでもあるし、身近の人に読んでもらおうと考えて、出来上がったものをあちこちに配ったところ、私が予想していた以上に好評だった。そこで、今度はもっと多くの人々に読んでもらいたい、それにはこれをインターネット上に発表したらどうだろうと考えるようになった。おかげでさまざまな苦労を背負い込むことになった。

 まずホームページ作成にとりかかる前に、民話集作成にかかわられた方々の了解を取り付けた。その了解を得てからいよいよホームページ開設の仕事に入った。

 さて仕事を始めて、まずひっかかかったのが「HTML」とか「プログラミング言語」と呼ばれるものである。これは私にとって初めて聞く言葉であった。実は普段私たちがパソコンで作る文章をインターネット上で発表するのには、パソコンで作った日本文の上にさらに別の言語である「プログラミング言語」と呼ばれる言葉のルールを付け加えてやらないと、せっかく文章を作っても、作った文章をそのままインターネット上で発表できるようにはならない。そのことがわかっていなかった。

 そこでその「プログラミング言語」のルールを勉強することから始めようとしたのだがこれが実に難解極まりない。今でこそ少しはわかってきたものの「拡張子」「ウエブ」「リンク」などまったく意味の判らない言葉が次々と現れてくる。

 しかし世の中は捨てる神あれば拾う神あり。普通の日本文をインターネット上に発表できるような文章に自動的に書き換えてくれる自動翻訳機能を「ワード」というワープロソフトが持っていることに気づいた。そこでこれを使うことに決めた。

 その後プロバイダーとの折衝も行い、ホームページ作成作業をはじめてから開設までは二週間ほどで割と短期間だったものの、その後ほぼ一年間は、民話の中に出てくる方言を集めたり、イラストを入れたり、故郷を紹介する写真を集めたりして、延々とさまざまな手を加え続けた。まさに苦難の連続といって日々であった。話せば長い物語になるので省略。

 ただ元の民話集には民話の切れ端とも言うべき短い話もたくさん集められているのだが、それらはこのホームページでは取り上げなかった。

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掲示板への書き込み

 自衛隊のイラク派遣に関して

「自衛隊が駐屯している場所が安全な場所なんです」

などの名ぜりふを残した有名な首相が在任中のころの話である。

 私はそのころ自衛隊のイラク派遣は正しいかどうか、首相の靖国神社参拝は憲法違反かどうか、A級戦犯は靖国神社に合祀されたのは正しいかどうか、第二次世界大戦はしないでもすんだかどうか、日本軍の中国侵略は正しかったかどうか、昭和天皇に戦争責任があるかどうか、南京事件はあったのかなかったのか、慰安婦問題を話題にすることは国益を損うことになるかならないか、沖縄戦での民間人の集団自決は強制されたものかどうか、当時の指導者達に戦争責任を問うことが出来るかどうかなどなどの問題についてインターネットの掲示板にさかんに書き込みをした。

 私がどのような立場に立って書き込みをしたのかその例を一つ取り上げると、私は「昭和天皇には戦争責任がある」と考える立場であった。このことについて皆さんはどうお考えでしょう。

 その他の問題に関して、私の立場がどうであったか、どんな書き込みをしたかはともかく、私にとってはそのころは灰色の脳細胞を刺激され続ける毎日だった。

 それに関連して新聞の切り抜きも盛んに行ったし、さまざまな資料も集めて、ノートもとった。おかげで第二次世界大戦時の日本軍の実情や靖国神社の歴史的な経過などの多くのことを知ることができた。岸元首相と統一教会の接触があったことがわかるなどの意外な事実も知ることができた。

 当時は今にも憲法九条は改正され自衛隊が晴れて軍隊として認知されるのも間近かだとかなりの評論家や学者がはしゃいでいたころである。「国民の歴史」「国民の道徳」などの書籍が店頭を飾っていた。

 そのころ張り切っていた人々は今はどうしているのだろう。最近はさっぱり名前を聞く機会がない。それに軍事にはどの程度金をつぎ込めば妥当な線だといえるのだろうということを今もって疑問に思う。

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予定表

 私の予定表は最近は空白だらけでほとんど予定表の意味を成さない。それに反して妻の予定はカレンダーにびっしり隙間なく書き込まれている。私は妻の予定表など丹念に見ることほとんどしないから、

「私、今日は8時から車を使いますよ。パークゴルフ場へは自転車で行ってくださいね」

 などといわれて、内心、えっ、そんな予定あったのかな、と思うことがある。

「今日は、10時に車で送ってくださいね」

といわれて、実際に車を動かし始めてから、

「どこへ行くんだったけ」

などと聞き返すと、

「あなた行く先も知らないで車を動かしているの。前から頼んでいたでしょう。あなたぼけたんじゃないの。ちゃんと覚えておいてくださいよ。カレンダーにも書き込んであるでしょう」

 と言葉がとがってくる。

 あるいは行く先を聞くのがおっくうで適当に見当をつけて車を動かすと

「あなた行き先が違うでしょう。どこへ行くの」

「あ、そうだった。そうだった」

 などと話しながらそれとなく行き先に見当をつけたり思い出したりして、車の走る向きを変えなにごともなく目的地にたどり着いたりする。

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憧れのハワイ航路

 憧れのハワイ航路という歌が戦後まもなくのころ大ヒットした。私にも無理なく歌えるので自転車に乗りながら口ずさむことがある。一番の歌詞は次のようになっている。

「晴れた空 そよぐ風 港出船のドラの音(ね)愉(たの)し

 別れテープを笑顔できれば 希望(のぞみ)はてない遥かな潮路

 ああ 憧れのハワイ航路」

 この歌が大流行したのが昭和二十三年で戦争の記憶がまだ生々しく残っているころだった。

 わずか三年前までは鬼畜米英ということで、日本国民は一億火の玉になって戦えと叱咤激励されていた。本土決戦に備えて、一般国民は戦うにも武器はなく、鉄砲の代わりに竹やりで立ち向かえということで竹やりを作った。わら人形を米英の兵隊に見立てて、それを竹やりで突き刺すという言ってみれば戦国時代さながらの訓練がなされていた。

 その日本で敗戦後わずか三年で、この「憧れのハワイ航路」が大流行するとはどういうことなのだろう。

 改めて一番の歌詞を見直してほしい。ハワイといえば日本軍がこの島にある真珠湾を攻撃して日米開戦のきっかけになった島である。よりによって、そのハワイへの船旅が「憧れ」であり、「希望はてない遥かな潮路」であるとはどういう心境なのだろう。

 昨日の敵は今日の友という言葉もあるものの、手のひらを返したようなこの変わり身の速さはなんとも説明しがたい。じっくり振り返って考えてみてどこに問題があったのか考え、それをもとに新しい進路を設計するという習慣が私たちにはもとからかけているのかもしれない。

 己の組織を守るために、仲間内には優しく、現場には厳しくし、国民を戦争に駆り立て、膨大な犠牲を自国民や他国民に強い、結局国を滅ぼしてしまった軍の上層部や為政者たちの責任がうやむやにされたことが納得できない。

 あるものは何事もなかったかのようにそ知らぬ顔をしていつの間にか政界に復帰し、あるいは高級官僚としてそのまま居座り、そのことが戦後の恥知らずな政治の伏流になっていった。昭和天皇は退位することで、自ら率先してけじめをつけるべきであった。

 このように考える人は当時たくさんいたのになぜその考え方は生かされなかったのだろう。

 天皇は敗戦後わずか一年で人間宣言をし、それまでは神であった天皇は一人の人間になってしまった。三島由紀夫は天皇のこのような行為は神である天皇のために死んでいったあまたの英霊に対する重大な裏切りであると考えていた。

 三島はこれこそ日本人のあいまいさの極みであると考え日本人に愛想が尽きて自殺したのかもしれない。

 

 柳田國男は座談集「日本人」の中で次のように述べている。

「日本では島国でなければ起こらないような現象がいくつかあった。いつでもあの人たちにまかせておけば、われわれのために悪いようなことはしてくれないだろうということから出発して、それとなく世の中の大勢をながめておって、皆が進む方向についていきさえすれば安全だという考え方が非常に強かった。

 いってみれば、魚や渡り鳥のように、群れに従う性質が非常に強い国なのである。そのために相手が理解しようがすまいがむとんじゃくに、自分の偉大さを誇示するために難解なことばをもって、ややすぐれた者が、ややすぐれない者を率いる形になっておったのでは、真の民主政治がいつまでたってもできる気づかいはないのである」

 

 最近原発事故のニュースが新聞を賑わわさない日はない。しかしその原発を安全だといい積極的に推し進めた人たちは今何を考えているのだろう。事故の経緯をしっかり検証しておかないと、わたしたちはこれから先また同じ間違いを繰り返すかもしれない。

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 本の山

 私も妻も身辺にかなりたくさんの本の山がある。

 私は最近、昔読んだ本をもう一度読み直している。当然といえば当然だが自分の読みたい本がそろっているので、図書館で本を探すのと違い、すぐに読み直したいという本に出会うことができる。

 それに昔読んだ本を読み直すと必ず新しい発見がある。私は一応本をテーマごとに整理して並べ、本の背中の題字を眺めているだけで、あまり読んでいなくてもその本をすべて理解しているような錯覚に陥り、幸せな時間をすごすことができる。

 確か作家の大宅壮一も全集などを本棚に並べてその背中を眺めるのを楽しみにしていたという風なことを聞いた記憶がある。

 妻について言えば、本は身辺のあちらこちらに比較的乱雑に散らかっていたり、適当に積み重ねられていたりする。ところがその本の山の中から捜し求める本を見事に一発で選び出すことができる。

 しかも私と違って、読んだ本の内容をしっかりと覚えている。それに本を読むのが早い。若いころには内容が硬くない本であれば、一晩に四、五冊は読んでいた。

 

 私は昨年古典の中から面白そうなものを選んで自己流に訳してみた。そのままにしておくのも残念な気がしてインターネット上に開設したホームページ「石見国・邑智郷の民話と言葉」に追加して掲載した。

 古典を訳す上で妻とあれこれ話し合ったことが大いに参考になった。特に紫式部が自分の日記の中であれほど清少納言のことを悪く書いたその背景がよくわかり大変助かった。

 その際、能の台本を読むことがあった。能は死霊を慰めるための舞であり舞楽から発展したものだとか能は幽玄の美を表しているなどといわれている。能には全くの素人である私にも能舞台の緊迫感はそれなりにわかる。

 しかし能の台本だけ読んでみると、だいたいは初めに旅の僧が出てきて、過去に恨みを抱いて死んだ人の亡霊に出会い、その亡霊が自分の過去の華やかな活躍を語り、盛り上がったところで突然のように掻き消えてゆくという風な筋書きになっている。始めちょろちょろ中ぱっぱでこれからかなと思うところですうっと終わってしまう。能の台本だけ読む限りでは能のよさがよく伝わらない。

 しかしこのことは他の劇にもいえることかもしれない。

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「わしが」族

 私には九歳年上の兄が一人いる。九歳も離れていると小さいころに一緒に遊んだという記憶は全くない。

 物心がつくころは戦時中で兄は学徒動員で駆りだされて、家とは離れた場所で暮らしていた。敗戦後は家に帰って農業の手伝いをしてたが、そのころ私は本ばかり読んでいて、あまり農作業の手伝いには熱心ではなかったので、兄によく耳を引っ張られて手伝いをさせられた。

 小さい頃の兄の記憶といえばそれくらいのものである。

 その兄がしばらくぶりに電話をよこし、最近勲章をもらいに東京へ行ってきたと自慢した。私は何をするにも妻にくっついて歩きたい濡れ落ち葉の「わしも」族だとすれば、兄は何でも自分で仕切らないと気がすまない「わしが」族だといえる。

 兄は村の顔役でありよく相談されるし、何にでも「わしが、わしが」と顔を出す。県庁でもどこでも呼ばれてよく顔を出す。同じ村落の結婚式の仲人役は全部おれが頼まれたともいっていた。

 私は何をするにも妻にくっついて歩きたいぬれ落ち葉の「わしも」族だとすれば、兄はなんでも自分で仕切らないと気が済まない「わしが」族だといえる。

 だからこそ勲章をもらいに東京まででかけるという栄誉も手に入れることができたのだろう。それくらいの心構えがあったから家の体面を保ち、財産を守ることができたのだろう。

 私が家を継いだらとてもこうはいかなかっただろう。

 私の息子の結婚式で、私がのほほんと座っていると、兄に

「お前の息子の上司に挨拶に行け。今すぐ」

 とささやかれてあわてて立ち上がった。私は息子が栄進しようがしまいがそれほど興味はないのだが、兄にとっては私以上に私の息子の先行きが気になる様子だった。私が挨拶をし終わって席に戻ったとき兄は満足そうな顔をしていた。

 父親として息子の上司に挨拶をするのが当たり前のこととはいえ、私はどうもこうしたことを億劫に感じる。私は何事もやらなくても済むことはしないでおこうとする。特に面倒なことほど先送りにする傾向がある。そのことでよく妻にも注意されている。

 結婚式当日には普通、新郎の父親は両家を代表して、お礼の言葉を述べることになっている。私はこんな厄介なことはしたくないと前から妻には話していた。当日はもしかしたらしなくてもいいかもしれないと思いながらのんびりくつろいで食事をとっていたらいきなり、

「両家よりご挨拶があります」

という言葉があって否応なく参会者の前に引き出された。

 席を立つときには「なんとか挨拶くらいは」と軽く考えていたが、突然マイクの前に立たされ、スポットライトを浴びたものだから、しどろもどろになってしまった。仕方なくポケットに入れておいたメモ用紙を取り出す羽目になった。

 かなり前に妻は私に両家を代表してお礼の言葉らしきものを書かせていた。このことが気になっていたものの、前から「挨拶なんかしないぞ」と言っておいたので大丈夫だろうと、さして気にも留めていなかった。この報いが突然やってきた。

 結局妻が事前に書かせておいたメモ用紙が役に立つことになった。しかしそのぶざまな様子はビデオに収録され永久保存になってしまった。

 

 私は父は私が遺産相続を求めて、家の財産を二分するのは困るとよく言っていた。私にはそんなつもりはさらさらなかったのだが、父にとっては安心できなかったのだろう。そこで父は生前に「父が亡くなっても財産分与は求めない」という意味の念書を私に書かせた。父が亡くなった時にも正式な財産分与放棄の書類を書くことになった。

 私は今は実家から遠く離れた地で暮らしている。

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アリの行列

 今から数百年前鎌倉時代の末ごろ書かれた「徒然草」の中に、人間の営みをアリの行列に例えた話が出てくる。人はアリのように一日中東へ西へ、北へ南へ歩き回っているというのである。人間の営みをアリの行列に例えるのは昔も今も変わらない。

 今年の夏もアリが家の中を行列を作って歩き回る年中行事が始まった。例年のごとく妻は眼の色を変えて熱湯の入った薬缶や薬剤、洗剤などを片手にアリの撲滅に乗り出す。私が

「アリにも生存権があるんじゃないの」

といったら、

「何を寝ぼけたことを言っているのよ。アリには家宅侵入罪があるのよ」

とやり返された。しかし、おいしいものを食べるときには

「アリさんに聞かれたら困るから黙って食べましょう」

などといっている。

 おしゃかさんの教えによれば、人間は六道を輪廻するからして、来世はあるいはアリに生まれ変わるかもしれない。今部屋の中を歩いているアリはあるいは私のご先祖様の生まれ変わりかも知れない。

 私たちは自分の都合により、ある生き物に対しては手厚い保護に乗り出し、ある生き物は育ててはかたっぱしから食用にしている。食べられるために飼育されている生き物にとってはいい迷惑だろう。かく言う私もかっては地上に生まれ育ってきたせいぜんに生き物の肉をごく普通に食べている。ご先祖様の生まれ変わりを食べ物として頂いているのかもしれない。

 おしゃかさんは私のこの矛盾した言動をどうお考えになるだろう。間違いなく地獄へ行くのだろうか、それとも親鸞上人がおっしゃったように阿弥陀如来を心から信じさえすれば如来に救われて、死後は極楽浄土へ生まれ変わることに決まっているのだろうか。

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漢字の由来

 最近ある漢字の語源に関する講演会に出席した。講演が終わって、司会者の何か質疑はありませんかの言葉に促されて次のような質問を三つほどした。

 

1.今までの説では「口」は人の口を表し、声や言葉を表す意味に使われるようになったといわれている。ところが白川静説によれば「口」は人の口というよりも、神への祈り文(祝詞・のりと)を入れる器の形を表すということであるが、すべてそうであると言い切れるかどうか。

2.白川静の「口」の語源に関する説は本場中国ではどう受け止められているのか。

3.最近の漢字はあまりにも簡略化されて、偏や旁(つくり)がもとの漢字では違っていたにもかかわらず同じ形になったものがある。点一つ、線を一本増やすことで漢字本来の意味を取り戻すことができるのであればそのようにはできないのか。

 

 答えは次のとおり

1.そうとも言い切れない。従来の説のほうが正しいと思われる場合がある。たとえば「名」

 白川説:「夕」は肉月の二つの「丶」の内の一つが省略されたもの。「口」は祝詞の入れ物。子供が生まれて一定期間が過ぎると、祖先を祭る廟(みたまや)に祭肉を供え、祝詞をあげて子供の成長を告げる儀式を行うが、そのとき名をつけたので「な、なづける」という意味になった。

 従来の説:「夕」は夜の意味。「口」は人の口を表し、「言う」を意味する。暗いときに自分の名前を告げる意味を表す。この説のほうが正しいと思われる。

2.白川説は本場中国では「敬して遠ざける」風に扱われている。要するに「なるほどそういう考え方もあるのか」程度の扱いしか受けていない。

3.確かに仰るとおりである。たとえば「器」。中央にある「大」はもともとは「犬」であったのが右上の点が省略されて「大」になってしまった。しかし、「犬」のほうが「器」の意味を正しく表す。しかし、文部省は元に戻さないでしょう。

私:元に戻すように働きかけてください。

講演者:そのようにがんばります。

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運転免許取得

 妻は五十歳を過ぎてから運転免許を取得した。年の割にはといえば失礼だろうが、ともかく一発で受かって周りの人に感心された。免許を取得した後も市内の中心部の冬の凍った道を震えながら運転しながら職場に通った割には事故の一つも起こすことなく過ごしてきた。

 当初はちょっとしたカーブを通過するのも慣れなくて苦労したのに今ではすいすい運転している。私が当然のように車の列が途切れるのをゆっくりのんびり待って、おもむろに車を動かすような場合でも合間を見てさっと列の隙間に入ってゆく。

 私は妻の運転する車の助手席に座るのは抵抗がある。しかし妻はせっかちな割には事故を起こさないし、私はのんびりしているというよりもぼけーっとしているので昔は人並みに事故を起こした。

 車の運転にはせっかちのほうが向いているのかもしれない。ただ、バックで車庫に車を入れるのは大いに苦手にしていて、これだけは今も私の役目になっている。バックで車を動かすとハンドルを右に切っていいのか左に切っていいのかわからなくなるのだそうだ。

 

 その妻に昔ナビゲーターを頼んだときのこと、しきりに道路地図を逆さにしてみている。街角で車の向きが変わると持っている地図の向きも変わる。とてもナビゲーターを頼める様子ではなかった。

 ときどき妻から、今まで行ったことのない初めての場所へ車で行くにはどのように走ったらいいかその道筋教えてほしいと頼まれることがある。その際、地図で示すだけでなく、時には前もって実際に車を運転しながら走る道を教える。

 そのときの妻の道筋の覚え方はどうも地図として覚えるというよりも、要所要所の目印になる店や建物を覚えていてそこで車の方向をどちらに変えたらいいかという風に覚えているらしい。道に迷ったときでも妻は

「この道は一度走ったよ。あの店に見覚えがある」

などという。私は小さな店などにはあまり注意を払わないので驚くことがある。 妻と私の思考回路の違いを感じることがある。

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虫の知らせ

 遥か遠くに離れている人同士の気持ちが通じ合うことがある。意味がすこし違うけれども、虫の知らせとか胸騒ぎと言う言葉もある。共時性と言い表されることもある。

 今昔物語の中に次のような話が出ている。

 平安時代中期の学僧源信僧都は母親から学問に励みそれほどの用もないのに気軽に家に戻ってはならないと、きつく言われていた。しかしあるとき胸騒ぎを感じ、母親には止められているのに急いで修行先から故郷に戻ってみると母親は息を引き取ろうとするところであった。僧都は母親に極楽の有様を説いて聞かせ母親を心安らかにあの世へ送り出すことができたというのである。

 

 昭和30年代頃の列車はまだ石炭を焚いていて列車がトンネルの中に入ると窓から黒い煙が中に入り込み、顔や衣服が黒くなった。座席も背もたれは硬い板に布を張っただけのもので、今、ローカル線を走っているジーゼルカーの座席によく似ていた。

 私が大学に通っていた頃は、夜の十時ごろに列車に乗り、この硬いいすに座ったまま仮眠を取りながら帰省した。ほとんどの人は寝台車を利用せずに、すしずめの状態で、三等の座席に座ったままで眠り、中には通路や網棚の上に寝ている人もいた。私はうとうとしながら夢を見た。

 私は実家に帰っていた。玄関を開けて

「ただいま」

 というと、迎えに出た父が

「おう、よく帰ったな」

 といったところで眼が覚めた。ただこれだけである。ただ、実際に自分が家に帰って玄関の戸を開けたような感じがした。自分の手に玄関の戸を開けた感触が残っていた。眼が覚めて列車のいすに座ってうたた寝をしているだけなのが信じられない気持ちだった。

 家に帰ってこの話をすると、父は

「おれも、お前が帰ってきて、玄関を開けて『ただいま』と言う夢を見た」

 といった。私は驚きもし、なんとなくうれしく感じた。

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魚がすき

 妻は魚が大好きである。小さい頃は猫と呼ばれていたといっていた。焼き魚を食べるのに骨と身をきれいにはがして食べることができる。数日魚を食べないでいると、無性に食べたくなるらしい。

 魚に対するよしあしの判断基準は、その魚が食べられるかどうかにかかっている。

 子供が小さい頃私たちは水族館に見学に出かけた。ある水槽の前に立ち止まり妻が

「あら、おいしそう」

 といった。しばらくして気がつくと子供たちがそばにいない。あたりを探すと離れた場所で私たちとは親子ではありませんという風な様子で立っていた。

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縫い針に糸が通せない

 久しぶりに妻がぶつぶつ文句を言っている。近づいてみると縫い針に糸を通すのに悪戦苦闘している。私がその仕事を引き受けたものの簡単にはできない。第一針の穴がかすんで見えない。そこで老眼鏡をかけたもののうまくいかない。

 糸通しを針箱のそこから探し出したものの、そもそも糸通しの先が針の穴に通らない。老眼鏡をかけた上に天眼鏡をかざして何とかうまくいった。

 昨日はできたことが一つずつ今日はできなくなってゆく。昔はこともなくできたことがなかなかできない。わずか六十センチの段差を飛び降りるくらい分けなくできたのに、今では片手を突いて、掛け声をかけ、気合を入れてやっと飛び降りることができる。

 妻は

「昔すっとできたようなことがだんだんできなくなる。これが老いることなのね」

と感に堪えないという風に言った。

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内なる自分との戦い

 ある新聞の日曜日の特集で国枝慎吾という車椅子のプロテニスプレーヤーについての記事を読んだ。彼の言葉を要約すると、

 曰く、競技に強くなるために次のようなことを自分に言い聞かせている。それは

1.俺は強いんだと自分に言い聞かせること。

2.ライバルは対戦相手ではない、内なる自分だ。

 実は私はパークゴルフをやっている。実力は中の上というところである。たまに上位に顔を連ねることがある。パークゴルフは年寄りが体力維持のためにする遊びにすぎないというなかれ。記録会に参加すればすこしでもいい成績を残したいとがんばる。

 しかし今年は今ひとつ熱が入らない。自分の実力に限界を感じて、これからは記録にこだわるよりも楽しみながら体力維持のためにのんびりやるのが年にふさわしいと考えていた。

 そんなときに何気なくこの記事を読んだだけに、私は深く納得するものがあった。もう少しがんばってみよう、頑張れるかもしれないという気持ちになった。

 記録のよし悪しはメンタルな面が強く影響してくる。やるぞという前向きの気持ちを失わずになおかつ冷静でいられるかどうか、言い換えれば、どれだけ自分との戦いに勝てるかどうかがスコアに直接響いてくる。そこらあたりの気持ちの持ち方について的を得た言葉が書かれているのでその部分を引用してみたい。

 

「スランプから抜け出せたのは発想の転換だった。米国での試合中に突然、対戦相手ではなく、内なる自分との戦いに目覚めた。まだ自分は未熟なんだ、もっと強くなれる。そう思うことで、練習でも一球打つごとに喜びを感じるようになった。精神面で殻を破った瞬間だったと思う」

「オレは最強だ。いまもラケットやマウスピースに、そう書いてある。世界一に導いてくれた呪文が、いつも眼に見えるところにある。さすがに人前で叫んだりすることはないが、勝負どころでは心の中で唱える」

「今日は昨日の自分より強くなる。今日の自分より、明日は強くなる。ライバルは一日前の自分だ」

 

 最近車の中でラジオを聴いていたときつぎのような話が耳に入ってきた。

 近頃東京のある下町で街を活性化するためのイベントの一つとして日本手ぬぐいを作ったそうだ。その手ぬぐいの真ん中には「負けない」とプリントされているだけである。

 ただ普通の手ぬぐいと違って長さが半分しかない。ちょうど週刊誌を広げたくらいの長さしかない。いってみれば大き目のハンカチの横幅を少し広げたようなものである。

 これはいったいどういうことか。その心は頭にも「巻けない」、首にも「巻けない」。

 私はこの話に下町に住む人の江戸の昔から受け継がれてきた何事もしゃれのめす心意気を感じた。そしてがんばってみようという気にさせられた。

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隠された十字架

 梅原猛の「葬られた王朝」と「隠された十字架」を読んだ。「葬られた王朝」は出雲大社について書かれたもので、「隠された十字架」は法隆寺について書かれたものである。

 その趣旨は出雲大社と法隆寺はどちらも怨霊を封じ込めるために造られた建物であるということにある。出雲大社にはオオクニヌシの霊が封じ込められ、法隆寺には聖徳太子一族の霊が封じ込められていると述べている。

 梅原猛は哲学者として出発し、もともと歴史学者ではないので、専門の歴史学者にはあまり言えないようなことを大胆に提案し、しかも説得力がある。歴史学者たちの間では梅原説は積極的には支持されていないように思える。

 しかし梅原説に疑問を抱いたり反対するのであれば、梅原さんが詳細に調べた資料や建物、仏像などについて、梅原さん以上に資料を読み込み建物や仏像を調べたうえで、一つ一つ反論していかなくてはならない。だがそれはたぶんできないだろう。

 

「隠された十字架(法隆寺論)」(新潮社)で述べられている要旨は次のとおり。

 聖徳太子の子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)は天皇の位につく有力候補であったが、蘇我入鹿や巨勢徳太(こせのとこた)、大友長徳(ながとこ)らに攻められた。山背大兄はいったん立てこもっていた斑鳩宮(いかるがのみや)を焼いて生駒山に逃れたものの、戦いに利あらずと悟り父聖徳太子の建立した法隆寺に戻ってその中で一族ことごとく自害した。

 巨勢徳太や大友長徳は軽皇子(かるのみこ)の近臣であり、その他の理由もあり、事件の背後には軽皇子や藤原氏の祖先である中臣鎌足がいると考えられる。後に軽皇子は孝徳天皇として即位し、巨勢徳太は左大臣、大友長徳は右大臣、中臣鎌足は内臣の要職に就くことになる。

 この法隆寺はその後天智天皇の時代に全焼する。その後山背大兄を自害に追いやったものたちに不幸が続き、その原因は聖徳太子とその子山背大兄一族の怨霊の仕業と考えられた。そこでその怨霊を鎮めるために法隆寺(西院伽藍)が再建された。

 しかしその後も山背大兄一族の怨霊によると考えられる変事が相次いだために、さらに法隆寺に隣接している斑鳩宮の跡地に夢殿(東院伽藍)が建立されることになった。それらの建物自体およびその中に安置されている仏像などには普通考えられない異様な姿が見られる。

 

 それらを列挙すると、

1.法隆寺の中門は四間で、中央に柱があり、人や霊魂が出入りするのを拒むような形になっている。

 このような造りは出雲大社にも見られる。出雲大社社殿は「田」の字の形をしており中央に柱がある。神様の出入り口がない。当時建てられた他の寺の門は三間か五間になっていて、中央に柱はなく、人や霊魂が自由に出入りできる。法隆寺の中門のような例は他にはない。

 他にも金堂の一階は五間であるのにもかかわらず、二階部分は造るときの不便を承知でわざわざ一間減らして四間にしている。五重塔の最上階の五層部分が二間なっている。偶数の間口を持つ建物はその建物からの出入りを禁止する造りだといえる。

2.再建当時の法隆寺では回廊が金堂と五重塔を取り囲んでおり、回廊の東側、北側、西側には僧坊があり、南側には中門があって固く閉ざされていた。霊魂が外に出ることを厳しく監視しているような造りになっていた。

3.講堂は僧侶が国家鎮護のために祈ったりお経を読んだりする重要な建物であり、普通講堂のない寺は考えられない。にもかかわらず、再建された法隆寺には当初講堂がなかった。それでは不便なので、後に平安時代になってから、それまでの食堂(じきどう)として使われていた建物を改造して講堂として使うことにした。

4.金堂の中央にある釈迦如来像は聖徳太子を模して作られたと考えられている。この釈迦如来像釈の眉間の中央にある白亳に小さな釘が打ち付けられている。如来像が作られた当初はこのことは白亳に隠されてわからなかったのだが、後に白亳が剥落したためにこのような異様な事実が明らかになった。

 仏像の眉間の中央に小さいとはいえ釘を打ち込むのは普通のことではない。

5.釈迦如来像の左右にある脇侍は銅の板で作られていて中空になっている。そして背中の部分には脇侍の頭部から膝下あたりまで達する、人の形をした木の板がはめ込まれており、下にずり落ちないように頭の部分、胸の部分、膝の部分の三箇所に鉄製の横板が張られ脇侍の体とつながれている。

 その人形の頭の部分に釘を打ち込み背後の光背を支えている。また人形の胸の部分にも釘が打ち込まれている。この木の板でできた人形は奈良時代に流行した呪いの人形を思わせる。(発掘された呪いの人形にも両眼と胸の部分には釘が打ち込まれた穴が開いている)脇侍のこのような仕掛けは、聖徳太子一族の怨霊が外に逃げ出さないようにするための細工だと思われる。

6.金堂の釈迦如来像の向かって右側には薬師如来像があり、左側には阿弥陀如来像があるがそれぞれの光背は直接釘でそれぞれの仏像の頭部に打ち付けられている。

7.五重塔の中には釈迦の臨終の場面、弥勒菩薩の浄土を表す場面、地獄の場面など五つの場面を表す土でできた塑像群が安置されており、これらの場面についても梅原さんは詳しい説明を加えているがここでは省略。

8.夢殿(東院伽藍)の中には救世観音が安置されている。

 救世観音の着衣は北魏様式にのっとって形どおりに彫られているもののその顔や手足は生々しく、生前の聖徳太子の姿を模して作られたと言われている。

 救世観音は普通左手に宝珠を持っているのだが、夢殿の救世観音は舎利瓶(骨壷)を持っている。観音の体は中空になっていて前面の人目に触れる部分のみが仏の姿に作られており、人目に触れない後ろの部分、後頭部、背中、尻、ふくらはぎなどの部分は作られていない。仏の姿とは思えない。むしろ怨霊の姿といってもいい。救世観音の光背や救世観音のかぶる宝冠には火焔模様が彫られていて救世観音というより怨霊の姿をした聖徳太子が一人燃え上がる炎の中に立っている姿を思わせる。

 普通、仏像の光背は支柱に取り付け、仏像の後ろに仏像とは少し離して置かれる。ところが夢殿の救世観音の光背は釘で直接救世観音の頭部に打ち付けられている。このような無礼なことは当たり前のことではない。

 明治時代までは救世観音の全身が白い布で巻いてありその布を取ると寺が崩れると恐れられ、人目に触れることはなかった。明治政府に雇われた美術史家であるフェノロサが、言い伝えを無視して初めて白い布を取り払いそれ以後人目に触れることになった。

 救世観音そのものが呪いの人形であり、怨霊が逃げ出さないように頭部に光背を釘で直接打ちつけ、全身を白い布でぐるぐる巻きにしたと考えられる。

 言い伝えではこの仏像を作った仏師は仏像を作ってまもなく亡くなったという。

9.737年(天平9年)天然痘の流行などにより藤原四兄弟が相次いで亡くなった。このことは聖徳太子一族の怨霊が再び祟りをなすようになったのだと考えられ、僧行信は光明皇后に聖徳太子一族の霊を慰め封じ込めるために、夢殿を造りその中に聖徳太子を模した救世観音を安置するようにすすめた。その行信の坐像が、太子の霊が逃げ出すのを監視するかのように夢殿の中に置かれている。

10.一年に一度聖霊を開放し慰める聖霊会が行われる。これは死者の葬礼の儀式であり、怨霊を鎮めるために行われる。みこしを担ぐ八部衆は冥土の住人である。

 この聖霊会では蘇莫者(そまくしゃ)と呼ばれる太子の怨霊の依代(よりしろ)が舞を舞う。蘇莫者の仮面はまさに亡霊の顔そのものである。蘇莫者とは「蘇我の莫(な)き者」の意味で蘇我一門(蘇我入鹿、蝦夷、聖徳太子、山背大兄一族)の亡霊を表すと考えられる。

 

 これらのことから梅原さんは聖徳太子とその子山背大兄一族の怨霊を封じ込めるためにまず法隆寺(西院伽藍)が再建され、それでも足らず後に夢殿(東院伽藍)が建立されたと考えている。私は梅原説に賛同するものですが、皆さんはどうお考えでしょう。

 これは余談ですが、夏目漱石は鬱の症状がひどいときに、悪魔を払うのだといって玄関に釘を打ち付けたりしたそうだ。

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どういう風に本を読むか

 私が本を読む時にはもちろん本の最初から丹念に一ページ一ページ読むことも多いのだが、そうではなくて先ず面白そうなところを詠み、だんだん本全体に及んでいくという風に読むことがある。つまりジグソーパズルのような読み方をし、最後に頭の中で一冊の本の形にまとめてゆく読み方もよくする。

 推理小説など結論の部分から読んで最初に戻ると言うようなこともする。もちろん本にもよる。

 読む本もさまざまな分野のものを同時進行で読むことがある。今、私の机の上には三島由紀夫の本から宇宙の始まりに関する本、柳田邦男の本、万葉集、日本書紀と古事記、帝国陸軍に関する本などが積み重ねられている。その中から適当に選び出して順繰りに読んでいって、最期に数冊の本をほぼ同時に読み終えることになる。書庫に入ると目に付いたものをあれもこれもという風に選び出すので、どうしてもこうした読み方になる。このようなことがよくある。

 高校時代は文学全集全盛の頃で世界文学全集や日本文学全集などが次々に刊行されたので、それを読み漁った。読書に関しては言ってみれば文学全集派といってよかった。

 そうした全集の中の一冊が今でも古本屋に一冊百円くらいで並べてあることがある。それを見つけると非常に懐かしい思いに駆られる。私が高校生の頃は一冊三百円くらいした。今の金額では多分一冊三千円くらいの価値があって、それを乏しい小遣いの中からやりくりして購入した。親や親戚から小遣いをもらう時にもあまり本ばかり買うなとよく言われていた。その頃苦労して購入した本が古本とはいえ今では一冊百円で買うことが出来る。私は本に対してなんとも申し訳ないような気がしてくる。

 最近読んで面白かった本に「はやぶさの大冒険」(山根一眞)がある。人工衛星「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」へ旅立ち、世界で初めて小惑星の微粒子を採取し、無事帰還するまでの七年間にわたる苦難の連続を描いたドキュメンタリーで、これを読むと日本の科学技術水準の高さが実によくわかる。

 その成果のほどは世界的に権威のあるアメリカの科学雑誌「サイエンス」に二度にわたって特集を組まれたことでもよくわかる。次々に立ちはだかる苦難をどのように解決して無事帰還させることができたのかその一部始終には下手な推理小説を読むよりもよほどはらはらさせられる。ぜひ一度読まれることを薦める。

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昔の暮らし

 今から六十年ほど前、戦争が終わった年に小学一年生になった。私の記憶では国語の教科書には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」というのがあった。それがしばらくして教科書のところどころを墨で黒く塗りつぶさせられた。それがなんとも理不尽なことに感じられた。

 次の年の教科書は質の悪い一枚の紙の裏表に印刷された教科書で、それをはさみで切り分けて自分で製本しなくてはならなくなった。小学校一年生のときに配られた教科書の紙質がよかったのに比べてあまりの変わりようを不思議に思った。

 その頃は今のように道路が整備されているわけでもなく、曲がりくねった細い土ぼこりの舞う田舎道を歩いて学校に通っていた。所々に地蔵さんを祀るほこらがあってその前を通るときには手を合わせてお辞儀をした。わらじを履きゲートルを巻いて通学したこともある。

 春先の夜晴れて冷え込んだ寒い朝には田畑の表面が凍り子供の軽い体重では田んぼの中に足が埋まることもないので、田舎道を歩かず田んぼの真ん中をまっすぐに歩いて学校へ通った。曲がりくねった田舎道を歩いて学校に行くのに比べて相当時間が短くてすんだ。

 家に帰る途中では友達のうちに入り込み、かばんを放り出して夕方遅くなるまで遊んでいた。父母が迎えに来たこともある。私の家の側から学校の近くまで川が流れていたので川の中をずっと歩いて帰ったこともある。小石を積んで流れをせき止めたり、めだかや小魚を捕まえた。川辺にはところどころ椿の木が自生していて、椿の花を取って蜜をすったこともある。

 今のように歩きながら飲み食いしたり、口の中に食べ物を入れてしゃべったりすることは非常にだらしないことに考えられていて誰もそのようなことをするものはいなかった。

 小学生になると男の子と女の子が一緒に遊ぶこともなかった。女の子たちの中に男の子が混じっているとはやし立てられたりからかわれたりした。

 私の住んでいた田舎では、大人でも男と女が手をつなぐことは考えられず、並んで歩くこともはばかられた。髪を染たりピアスをはめたりするなどということはもちろんだれも考えもしなかった。高校生でタバコをすうものはいなかった。

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星空の話

 私が図書館から借り出す本の中によく宇宙に関する本が含まれている。特に最近はハッブル宇宙望遠鏡やすばる望遠鏡によって撮影された写真集を見ることが多い。その美しい写真や解説には想像力をかき立てられる。

 私が高校まで育った実家は山の中にあって夜は星がよく見えた。特に冬の星座はオリオン座のペテルギウスやリゲル、大犬座のシリウス、ぎょしゃ座のカペラなどの明るい1等星が多く空気も澄んでいてきらびやかであった。特にシリウスは全天で一番明るい1等星であり、太陽系にも近く、ペテルギウスや小犬座のプロキオンとともに冬の大三角形を形作っている。

 今ではほとんど星空を見上げることはないものの、今でもかなりの星座の名前や一等星の名前を言うことができる。その頃はオリオン大星雲やアンドロメダ大星雲やスバルは肉眼でも見ることができたが今では目も霞んできて、たぶん探し当てることはできないだろう。

 対物レンズと接眼レンズをそれぞれ一枚ずつ購入して組み合わせ望遠鏡を作った。ボール紙を丸めて対物レンズ用と一回り小さい接眼レンズ用の鏡筒を作って中を墨で黒く塗り、先端にそれぞれ対物レンズと接眼レンズを取り付けた。接眼レンズ用の鏡筒を対物レンズ用の鏡筒の中にはめ込んで、手で出し入れをして焦点を合わせるという非常に単純な作りである。

 対物レンズの直径は四センチくらい、接眼レンズは一センチくらいのもので、硬質ガラス製の上質のレンズとはいえそれぞれ一枚だけのレンズを組み合わせて作った望遠鏡では色収差を抑えることができず、望遠鏡を通してみる星星は色がついてにじんで見えた。

 色収差を抑えるために反射望遠鏡を製作しようといろいろ資料を読んだのだが手間隙がかかりそうなことや小遣いの範囲を大きく外れそうなので断念した。

 その手製の望遠鏡を適当な柱で支えて星を覗くのはいいものの、せっかく探し当てた星もすぐに視野から逃げてしまうので、星を追いかけるのに非常に苦労した。月のクレーターを見た記憶がないのでたぶん性能が悪くてはっきりとは見えなかったのだと思う。今考えるとその性能は今ではおもちゃ屋で千円程度で売っている望遠鏡にも及ばないようなものであった。

 

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昔の暮らし その2

 昔は小学校高学年にもなると子供は立派な働き手であった。

 春、苗代で育てた苗を抜いて適当な大きさの苗束にして藁(わら)で縛り、これを天秤棒の前後につるした竹かごに入れて担ぎこれから田植えをする田んぼまで運んだ。水のぬるんだ田んぼの中ではおたまじゃくしがたくさんいたし、げんごろうやみずすましもいた。ひるがよくすねにくっついて血を吸った。しっかり食いついているので取るのが大変だった。

 子供なりに手甲と脚半を身につけ、子供の手の届く範囲の三列か四列の田植えを任された。大人に遅れないようにがんばったが、しゃがんでばかりの田植えは大変だった記憶がある。

 もっと小さいころ、小学校へ入る前には、着物を着、ぞうりを履いて近所の子供たちと朝から晩まで一面に田んぼに咲いている蓮華の花の中を走り回り転げまわって遊んでいた。あの頃の子供たちは今では立派なおじいさんおばあさんになって子供や孫もいるのだろうが、今思い出すのはあの頃の懐かしい記憶や笑い声、歓声、泣き声だけである。

 夏になると蛍が無数に飛び交った。水に浸してやわらかくした麦わらで蛍かごを作って蛍を入れた。蛍は簡単に手で捕まえることができた。

 家の近くに川が流れており、暑い日にはそこへ行って小石で水をせきとめ、めだかや小魚を捕まえた。

 秋には田植えのときのように二三列を任されて稲刈りをした。刈り取った稲は三株か四株まとめて稲藁で束ねて縛った。こうして出来上がった稲束を十束くらい背負子で背負い、はぜが立てられているところまで運んだ。がんばってできるだけ多く背負おうとした記憶がある。父母は夜遅くまで提灯の灯りを頼りに積み上げられた稲の束をはぜに掛け続けた。

 稲刈りの終わる頃、西条柿を取り皮をむいて干し柿を作った。柿の枝は折れやすく柿がなっている先のほうまで手を伸ばして柿を取ることができない。

 そこで三メートルほどの竹ざおの先をピンセットのようにそいで、その割れ目に、柿のなっている小枝をはさんでぐるぐる回すと小枝が折れて柿を取ることができる。このような柿を取るための専用の竹ざおがどの家にも置いてあった。

 渋柿の皮をむくと柿の渋で指が黒くなりなかなか消えない。柿の皮を剥くための小さな小刀があり、柿の皮を途中で千切れさせずにどれだけ長く剥けるかを競った。

 高校生になると母屋とは別棟になっている納屋(なや・農作業をしたり農機具を置く建物)の二階を自分の部屋として使っていた。日当たりのいい南向きの庇の下に自分用に百個以上の干し柿をつくりつるしておいた。二十日ぐらい過ぎると赤く色づき食べごろになる。さらにそのままつるしておくと黒ずんできて甘みも更にましてくる。食べごろになった干し柿をガラス戸を開けては手を伸ばし一つずつ取って食べた。

 冬には雪だるまを作った。私が育った地方の雪は柔らかいので、小さな雪だまを作ってそれを雪の上で転がすとそれだけでその周りに雪がくっつきすぐに雪だるまを作れるくらいの大きさになる。履いている下駄の歯の間にも雪が堅くくっついて次第に下駄が高くなり歩きにくくなった。

 中学生のときに家は新築されて瓦葺きになったので雪はすぐに滑り落ちたが、その前は藁葺きで雪は滑り落ちることはなく屋根にそのまま残っていた。春先の日差しが暖かく感じられるころになると屋根の雪も柔らかくなり、藁葺きの屋根に雪だまを投げ上げると、転がり落ちるときに次第に大きくなり軒先から落ちるときには小さな雪だるまくらいの大きさになった。できるだけ大きな雪のかたまりを作りたくて何度も何度も雪だまを作っては屋根のできるだけ高いところまで投げ上げようとした。

 屋根のわらの中は下から囲炉裏の暖かさが上ってくるので居心地がよかったのだろう、その中にはくさい虫が住んでいて、下で食事をしている味噌汁や茶碗の中に落ちてくることがよくあった。知らずに食べると後々まで苦い味が口の中に残った。

 当時は今のように椅子に座って食卓で食事を取るのではなく、囲炉裏を囲んでお膳の上に味噌汁やご飯を並べ、正座をして食事を取った。茶碗や湯のみ箸などそれぞれ自分の使うものが決まっていて人のを使うようなことはしなかった。

 小さな子供たちが一軒の家の作業場に集まって稲わらをたたいて柔らかくしこれで「こも(むしろ)」や「わらじ」を編むことがよくあった。私の作る「こも」は向こう側が透けて見えるくらい網目が粗くて使い物にならないとよく笑われていた。

 今でも「わらじ」を作ったり「むしろ」を編んだりすることができる。

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言葉遣い

 女の器量は言葉によるという。別に女性に限ったことではない。男でも同じである。言葉の使い方によってその人の人柄がわかるし人間関係が壊れることもある。

 妻の友人に声が大きくて言い回しが断定的でしかも時々語尾が上がる人がいる。その人と話していると普通に話していても何か怒られているように聞こえることがある。

 たとえば「今日はいい天気だね」というのに語尾の「だね」の部分の声の調子を上げて強めにいってみて下さい。どうです。今日天気がいいのがかえって都合が悪くて腹立たしいような感じになってきませんか。

 私の実家は中国地方の山の中にあり、妻と一緒に里帰りしたとき妻はその言葉の柔らかさに驚いていた。相手の間違いを正すときでも「~です」とか「~だ」というところを、相手の気分を害さないようにそれとなく「~ではないのかのう」という風な言い方をすることが多い。こういう遠まわしの言い回しは妻の育った北海道でもよく使う言葉遣いなのだが私の育った広島弁でしゃべるとそのイントネーションも変わり、ずいぶん受ける感じが違ってくる。

 同じことをしゃべっても北海道の人がしゃべると、その言葉はばきばきとしていて木の枝でも折るような感じがすると妻は言う。

 妻が私になにか「~してください」と頼むときに、私は冗談のようにして、「もっと語尾を上げて強く言わないと効き目がない」ということがある。皆さんも人に物を頼むときに語尾を上げしかも語気を強めて「~してください」といってみてください。人によっては気分を害する人がいるかもしれません。

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昔の暮らし その3

 私が子供の頃大人のすることを見てこういうことが出来るのが本当の大人だと思ったことがある。

 その一つは煙草の吸い方である。

 当時は紙巻タバコは高級品であり、みな江戸時代さながらのキセルで煙草を吸っていた。タバコの葉を煙草入れから取り出し、小指の先ほどの大きさに丸めてキセルの先の雁首につめ、火打石で火をおこしながらスパスパやっているとタバコの葉に火がつく。

 次の一服を吸うときには雁首の中の煙草の火が消えないうちに雁首を手のひらでトントンと軽くたたくと、火のついた煙草の塊が手のひらに落ちてくる。すばやくもう一方の手で煙草入れの中から新しい煙草の葉を取り出し、小指の先ほどの大きさに丸めて雁首につめる。そうしてもう片方の手のひらに乗っている煙草の火をスパスパやりながら、雁首に詰まっている煙草にまた火をつけるのである。手品を見ているような見事さであった。当時私は煙草は苦いということがわかっていた。ということはたぶん私もキセルの吸い口をなめてみた経験があるのだろう。

 キセルの胴が煙草のヤニで詰まってくると、針金を火で焼いてキセルの吸い口から差し込むのである。そうすると煙が出てきて、なんともいえないくさい匂いがあたりに立ち込める。私はキセルを見事に扱いながら煙草を吸うことができるのが大人の印だと考えていた。

 ただ私の父親は煙草は吸わなかった。その理由は煙草のみと酒飲みには賢い子供が生まれないということであった。たぶん父は経験的にそのことがわかっていたのだろう。

 

***

若い女の子

 外で庭木の手入れをしていたら中学生の制服を着た女の子に

「こんにちは」

 と声をかけられた。

「こんにちは」

 と挨拶を返しながらよく見るとついこの間まで家の前の通りを元気よく三輪車を乗り回していたあの女の子であった。あの子がこんなに大きくなるということはそれだけ自分が気づかないうちに年を取ってしまったということだと妙に感心した。

 しばらくして、外でまた庭木の手入れをしていると若い女の人に

「こんにちは」

 と声をかけられた。

「こんにちは」

 と挨拶を返しながらよく見るとつい二、三日前、中学生の制服を着て家の前を通りかかったあの女の子であった。私服になるとすっかり大人びて見えて、その変わりように改めて驚かされた。

 私が中学生の頃は女の子と話したり付き合うというようなことはほとんどなかった。そういう時代でもあった。

 兄が一人いるだけの男だけの兄弟の中で育った私には、女の子はなんとなく近寄りがたく遠い存在にもなっていった。私はだんだんとなんとなく一人で本を読んでいることが多くなっていった。農作業の手伝いもおろそかになり、兄にはよく耳を引っ張られた記憶がある。

 

 ところで最近高橋和己の「わが解体」を読み直す機会があった。改めて読み直してみるとその当時大学紛争の中心部近くにいた高橋がどのように考えていたのか改めてよくわかった。

 だが、私がここで述べたいのはそういうことではなく、彼の妻の立場に立ってみるとどういう風に思われるだろうかということである。和己自身は自分の思想なり行動をひたすら深く掘り下げていけばいいのだろうが、たぶん高橋の妻はそういう夫を客観的に外から眺めやりきれない思いに引き込まれたのではないかと思う。

 女性は家事とか育児に追い回されてどうしても考えることが現実的にならざるを得ない。それに比べ男性はそうした日常茶飯事から離れ、自分の学問や思想や研究などをとことん追求し、あるいは天下国家を論じて暮らすことが出来る。そのせいか古今東西の思想や自然科学などの学問の領域で活躍しているのは圧倒的に男性が多い。

 立花隆はそのような違いは男性と女性の脳の大きさの違いによるものだと述べている。だがそればかりでもないだろう。

 同じ高橋克己の文を読んでも昔とは全く違った面から物事を感じるようになったのはそれだけ年を取ったということでもあるのだろう。そして私自身妻に迷惑ばかりかけていたことに改めて思い至り申し訳ない念にとらわれる。

***

名前の呼び方

 私は妻を呼ぶのにたいてい

「・・・さん」とか「・・・さ~ん」と呼ぶ。

「おい」とか「お前」などとはまず言わない。

 妻が私を呼ぶときにはいろいろなバリエーションがあって、機嫌のいいときには

「・・・さ~ん」とか「・・・ちゃ~ん」などと呼ぶ。

 家の中で私を探すときには「ひろ~、ひろ、ひろ」とか、それがなまって「ぺろ~、ぺろ、ぺろ」と小犬でも呼ぶような調子呼ばれることもある。

 名前の前に「おい」をつけて呼ばれると怖い。

「おい、・・・。あれやっておいたか」

「おい、・・・。ちゃんとやっておかなきゃぁだめじゃないか」

 何も知らないで私達の会話を聞く人はどちらが男か、どちらが亭主か、分からないだろう。

 昔はこんなんじゃなかったのになぁと思う。

 私は内心むっとしながらも柳に風と言う風に聞き流すようにはしている。(文中の・・・の部分にはわた私の名前が入ります)

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怒る妻

 妻は私にとってはどうでもいいようなことでどなり散らすことがある。

 以前確か同じようなことしても何も言わなかったのにと思うことでも虫の居所が悪いとどなる。そうなると「おかしいじゃないの前には何も言わなかったのに」と異議を唱えてみたくなるのだが、火に油を注ぐようなことになるので、自然と黙り込んでしまうことになる。

 妻はその態度が気に入らないと言いながら、さらに怒りまくる。

 最近年を取ったせいかしゃがみこむことがおっくうになってきた。

 この前食卓の下にビンの蓋を落とした。また怒るかなと思いながら足のつま先でその蓋をそっと引き寄せおもむろに拾い上げた。ところが私の動作を一部始終見ていたはずの妻が何も言わない。うつむいたまま黙って新聞を読み続けている。

 よく観ると背中が小刻みに揺れている。妻が声を立てずに笑っている。

 私は驚いた。ふ~ん世の中変われば変わるもんだなと思った。

「あなたの振る舞いには長い間慣らされたのよ。今更怒ってみてもね」

 しかし、そうは言っても時には怒る。怒りまくることがある。

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投稿

 私は退職後、元職員で構成するある団体に所属している。構成員は全国にわたる相当大きな団体である。もちろん反社会的集団の構成員ではない。

 そこでは年に四回「友の会だより」を発行している。私はその「友の会だより」の投書欄に投稿した。もしかするとそれが採用されてその次の号に掲載されるかもしれないとひそかに期待していたのだが、全く音沙汰が無い。没になったのだなと諦めた。

 最近また最新号が郵送されてきた。よく読みもせずに、そのまま雑紙(ざつがみ)を入れる袋に放り込み、次の回収日にごみ収集所に持っていく積りにしていた。

 いよいよ明日は収集所に出すという日になって、「友の会だより」を発行している編集室からなにやら封書が届いた。これを封も切らず棚の上にあげておいた。

 パソコンに向かっていると妻がけたたましく叫びながら部屋に入ってきた。みると手に図書券と紙切れを持っている。

「あなた、あなたの投稿が採用されたよ」

 妻は棚の上にのせたままにしておいた封書を、封を切って中身を確かめてくれたのだ。確かに紙切れには私の投稿を掲載することになったのでその礼として図書券を同封して送ると書いてある。

 あわてて私たちは送られてきたはずの「友の会だより」を探した。古新聞入れを念入りに探したが出てこない。あちらこちら探したものの姿が見えない。その内、妻は私の雑紙入れから「友の会だより」を探し出してきてくれた。

 私自身は雑紙入れの中に入れたことすらすっかり忘れていた。

 それにしても妻が封書の中身を確かめてくれてありがたかった。雑紙入れの中から「友の会だより」を探し出してくれたのもありがたかった。私の投稿が採用されたことがわかったのが雑紙回収日の前日だったのはほんとうによかった。

 おかげで無事図書券は私の手元に残ることになった。

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 次の文章は投稿して採用された文章です。

 

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日本人の心の故郷

 

『故郷の言葉で語られる民話を読むと、誰でも、幼い頃息を殺して昔話に聞き入った懐かしいい出が蘇って来ます。夜は蛍が飛び交い、小川ではメダカや小魚がいっぱい泳ぎ、生き物で溢れていた故郷の昔の田園風景が目の前に浮かんできます。

 数年前たまたま書庫で故郷の民話集を手にして私は同じ想いに囚われました。この想いを伝えたいと考えた私はインターネット上に「石見国・邑智郷の民話と言葉」というホームページを開設した。収録した民話は八十話ほど、その後「たかが日々の暮らし、されど日々の暮らし」というブログなども入れた。

 一年間ほど延々と手を加え続けたましたが、それはまさに苦難の連続であり、私の灰色の脳細胞が著しく活性化された楽しい日々でもありました。

 民話は長い間人々の間で語り継がれてきた貴重な財産であり、人々に元気を与える不思議な力を持っています。日本人の心の故郷です。しかし今では民話を支えていた日本の原風景がすっかり失われ、それとともに民話そのものが人々の記憶のかなたへ消え去ろうとしています。

 それはあまりにも残念なことであり、何とか民話を残すすべはないかと蟷螂の斧のようなことを考えています。日本のあちこちに日本の原風景そのものの集落を再現し、そこで民話を故郷の言葉で語ったら素晴らしいことでしょう。民話は日本の元気を取り戻すきっかけになると信じています』

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老人性せっかち症

 年を取るとさまざまな症状が重くなったり軽くなったりする。妻は友達や仲間が軒並み「老人性自己中症」や「老人性(精神)硬化症」にかかってきたと嘆いている。私の場合昔は「自己中症」が相当重かったのが年を取るにつれて和らいできた。妻の場合は最近「老人性せっかち症」がかなり進んできた。これは今に始まったものではないともいえる。本人も「ほんのちょっと待てばいいのよね」といつもいっているのだが、それがなかなか出来ない。

*

 先日妻が預金の払い戻しと振込みのために銀行に出掛けた。すぐ出てくるものと思っていたが、入ったきり中々出てこない。後から入っていった人が出てくるのに妻は中々出てこない。心配になってキャッシュコーナーに行ってみると、払い戻し機の前でなにやらやっている。

 預金の払い戻しの方はうまくいったのに、振込みがうまくいかないという。結局「この機械ではカードを使った振込みは出来ません」と言うメッセージがでた。もう一度やってみようということで、次は場所を変えて、別の建物の中に設けられているキャッシュコーナーに行った。これも中々出てこない。結局諦めて車に戻ってきた。カードが使えなくなってしまったのか、コンピューターが故障したのかどっちかだといっていた。

 もしかしたら私ぼけてきたのかもしれないと落ち込んでいた。

*

 次の日気持ちを切り替えて三度目の挑戦をした。今度はにこやかな顔をしてすぐに出てきた。一発でうまくいったという。聞くと、前日の場合は何回やっても「もう一度初めからやり直してください」というメッセージが出てきたそうだ。メッセージにしたがってボタンを押すのはいいのだが、一呼吸する間ほんのちょっと待っていれば自然に画面が変わるものを、それが待ちきれなくて、何度も何度もボタンを押すものだから、コンピューターが混乱したのだろうということになった。

 コンピューターがいくら早いといっても妻のせっかちさにはとても付いてゆけない。

 妻が老人性ぼけ症状を発症したのではなくて本当によかった。

***

これで大丈夫ですか

 先日コンビに入ってプリカを買った。店員がプリカを渡しながら

「これで大丈夫ですか」

と聞いてきた。

 私はとっさにはなんのことだかわからず

「何が」

と聞き返した。

 よく説明を聞くと、

「品物を袋に入れずに直接手渡ししますが、それでもいいですか」

ということであった。察しのいい人はすぐにわかるのだろうが、あまりに省略されすぎていて、私には理解不能な一言であった。

 品物の代金として例えば千円手渡すと、

「千円からお預かりします」

とか

「千円からでいいですか」

と言われることがよくある。この言葉を聞くとなんとも言えず居心地の悪い感じがしてくる。

「千円預かります」

でいいじゃないかと思う。

 「から」ってどういう意味なのとつっこみをいれたくなる。

*

 年を取ると葬式のことも気になってくる。葬儀会社に出掛けていろいろ手続きをしようとしたときのこと、支店長らしき男性から、

「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」

と聞かれた。

 その言葉を聞いて、私はう~んと考え込んでしまった。すくなくとも一つの店を任せられている男である。しかもサービスを提供する店である。お客に対してそういう言い方は無いでしょうと思った。

 そこで私はおもむろに一言

「ぃやだ」

と言った。

 聞くほうも聞くほうなら、答えるほうも答えるほうである。

 気になる言葉に他には「私的には」とか「こじゃれた店」と言う言い方もある。皆さんはどう思われるでしょう。

 上に「こ」のつく言葉や、下に「的」のつく言葉はたくさんある。今では「わたくし的には」とか「こじゃれた」、あるいは「大丈夫ですか」「お名前を頂戴してもよろしいでしょうか」などの表現は市民権を得ているのかもしれない。

 国語学者である金田一春彦の「日本人の言語表現」を読んでいたら「あとがき」に次のような文章が出ていた。

「金田一春彦は、ゲバ学生の演説を聞いて教師を辞めたくなったそうなと新聞に書かれていたが、ムード的にはちょっとそんなことも確かにあった」

 妻と一緒にいつも通っている店とは別の店に出かけた。買い物終えて妻は

「値段的にはいつもの店と変わらないね」

と言った後で気が付いて

「あはは」

と笑ってごまかした。

 

***

後はおぼろ

 青江三奈の「恍惚のブルース」の中に

「あとはおぼろ あとはおぼろ

あゝ今宵また しのびよる 恍惚のブルースよ」

という歌詞がある。

 先日買い物に行くとき車が動き始めてから、妻が

「あなた、買い物袋をトランクに積み込みましたよね」

と聞いてきた。私は

「積み込んだような気がする」

 それに対して妻は

「私もあなたが積み込むのを見たような気がする」

と応えてきた。二人の意見が一致したので、間違いなく積み込んだのだろうという結論に達した。

*

 これが朝ごはんを食べたのに

「おれ朝ごはん食べなかったような気がする」

それに対して妻が

「私もあなたは朝ごはん食べなかったような気がする」

 二人の意見が一致したということで、朝ごはんの食べなおしをするようになったら、「あとはおぼろ あとはおぼろ」の恍惚の年頃に入ってゆく。

 こうなると二人とも先行き短いかもしれない。そして周りは大変だろうが二人とも幸せになれるだろう。

 

***

そこまでやるか

 先日車の中で妻を待ちながらラジオを聴いていたら、次のような話をしていた。

その1

 地下鉄の中で女子高生が恥ずかしげも無く堂々と、制服を脱いで私服に着替えていた。

その2

 バス停の近くの交差点で信号待ちのために車を止めたら、車の窓を叩くおばあさんがいた。窓を開けて話を聞くと

「私、バスに乗り遅れたの。病院まで送ってくださらないかしら」

 車に乗せて病院まで送り届けて、なんだかいいことをした気がしていた。

 ところが別の日に同じ場所で車を止めて信号待ちをしていたら、先日車に乗せたそのおばあさんが、今度は別の車の窓を叩いていたそうだ。

 そのおばあさんはヒッチハイクをして、バス代をうかせていたのだろう。このせちがらい世の中はこうでなくては生きてはゆけない。

 妻は時々体育館のプールの中を歩いている。そのときに聞いた話です。

 最近プールの水面に人のお尻から出たものが浮いていたそうです。もちろん大騒ぎになってプールの使用は丸一日全面禁止になり、水は全部入れ替えたそうです。

 ことを起こした本人にはそれなりの切羽詰った事情があったんでしょうがそれにしても何を考えていたんでしょう。

 

 ***

ながいつきあい

 妻と付き合い始めてかなり長くなってきた。こう長くなってくると時には離れて暮らしたくもなってくる。妻が旅行に行ったり、出掛けたりするとなんとなくのんびりする。先日

「ごみ出しをしたついでに歩いてくるから」

と言うと妻が、

「いってらっしゃい。帰ってこなくてもいいからね」

と機嫌よく、やさしく声をかけてくれた。

 妻は正直である。私は心に思っていてもそのような言葉はなかなか言えない。それを妻はためらいもなくさらりと言ってくる。

 私も一人で出掛けるときに、

「これから家出をします。大体図書館方面です。行方を捜さないでください」

と書置きして出掛けることがある。

 

 妻が新聞のコラム出ていたと次のような話をしてくれた。

 ある人が退職した後、「キョウヨウ」と「キョウイク」の日々を過ごしているというのである。どういうことかと言うと「今日行くところがある」「今日用事がある」と言うことなのだそうだ。

 無理にでも用事を作って「キョウヨウ」と「キョウイク」の日々を過ごすようにしないと、妻の行くところどこにでもくっついていきたい「わしも行く」病にかかる。ちょっとした散歩に出掛けるにも妻から

「行ってらっしゃい。帰ってこなくてもいいからね」

と送り出されるようになる。

***

 

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自分の文章

 最近島根に帰省したので、その旅行記を書いて親しい人に配ったら好評だった。

「その土地をよく知らない人が読んでも、いろいろよくわかるし、面白い」

と言うことだった。

 結構たくさんの人が私の文章を面白いといってくれる。褒められれば嬉しくなって又書いてみたいと思う。しかし私自身には自分の文章が本当にうまいのかどうかよくわからない。ただ私自身は自分でももう一度読み返してみたいと思えるような文章を書くようにしたいと心がけている。

 

 「たかが日々の暮らし、されど日々の暮らし」を読んでもらったときも好評だった。続きを是非読みたいと言われた。

 「邑智郷の民話」を配ったときにも非常に喜んでもらえた。ただこれは六〇才台以上の人で、昔話で育ってきた人に限られていた。親戚の若い中学生はあまりよくわからないといっていた。民話の語られた土地に住んでいながら、親が民話を話して聞かせる機会が無くなり、話す言葉そのものもその土地の特有の言い回しが廃れてきたためだろう。

「徒然草」を訳して配ったときにも喜ばれた。

「徒然草にはこんなことが書いてあったの」

と驚かれた。

 

 自分で古典を訳していて胸を打たれたのは「曽根崎心中」の道行きの場面で、今でも徳兵衛とお初の姿のあわれさが眼に浮かぶ。一茶が「おらが春」の中で一歳の誕生日を迎えたばかりの自分の娘「さと」について書いた部分は何度読んでも心温まるものがある。「平家物語」の「橋合戦」の場面では琵琶法師の語りを聞く人々は今の時代のわれわれが講談を聞くときのように胸躍らせたことだろうと思える。

「正信偈意訳」も喜ばれた。

 古典を訳すときに心がけていることは「わかりやすく、簡潔に、歯切れよく」だけれども、果たしてそれが出来ているかどうかよくわからない。古典の中の面白そうなものを選んで、それを訳すことにまた取り組んでみたいと思っている。

 

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靖国神社のこと

 最近日本の国を代表する人が靖国神社を参拝して物議をかもした。この神社を戦没した人を追悼する公共の施設にしたいと考えているのでしょうが、それは無理な相談だと思われる。

 そのわけは三つ。

 

.靖国神社が宗教法人であること。

 国は特定の宗教法人を優遇してはならないことになっている。したがって、それでもと言うのであれば憲法を改正するしかない。ところが憲法改正の前には国会議員の三分の二以上の賛成と言う高いハードルが控えている。もしそのハードルがクリアできたとしても、どう言う論理を使えば靖国神社が宗教法人ではないといえるのかよくわからない。

 靖国神社自体も靖国神社が国家に管理されるようになると宗教色が薄められるのではないかという危惧から靖国神社が公共の施設になる事に反対している。

二.いわゆるA級戦犯が合祀されていること。

 戦犯(戦争犯罪人)とは何ぞやという話になるとややこやしくなるので、戦争を引き起こした重要な責任者という意味で使うことにします。A級戦犯だけを特別扱いして戦争責任を押し付けるのはどうかと思う。そもそも戦争責任とは何であるかもよくわからないし、どのような地位にあった人まで戦争責任を問えるのかもよくわからない。

 日本の隣にこの問題を騒ぎ立てる国があるということで話題になりがちだけれども、そんなことは無い。騒がれようが騒がれなかろうが、私たち日本人が考えなくてはならない問題であることに変わりは無い。かって人々の目から本当のことを隠し、戦争を指導し、人々に耐え難い苦しみを強いた人々の責任はあれは無かったことにしましょうでは虫が良すぎる。

 

.自分の意に反しあるいはその親しい人の意に反して靖国神社に合祀された人がいること。

 キリスト教徒であったとか旧植民地出身の人であったとかさまざま理由により合祀してほしくないと考える人々がいる。その意を確かめずに靖国神社が勝手に合祀したことに対し裁判でも一応合法だということになっているものの、公共の施設になるということであれば改めてこの問題に取り組まなくてはならない。

 

 今からわずか五、六年前までは、靖国問題がこじれた原因をあるA新聞社に押し付ければ事足りていたが、その後別のY新聞社もA級戦犯合祀に反対するようになって、A新聞社に対する風当たりは和らいだ。

 当時の指導者達がどのように考え、どのように行動していたかを知れば知るほど情けなくなる。井の中の蛙というか、夜郎自大というか、想像力の欠如というか、敵を知らず己を知らずというか。司馬遼太郎はノモンハン事件を作品に仕上げようとしてさまざまな資料を集めたのに、事実を知れば知るほど当時の軍部の指導者達の馬鹿さ加減に嫌気が差してやめてしまった。

 

 早坂隆の「世界の中の日本人ジョーク集」の中に出てきたジョークの紹介です。日本軍のイメージに関するもの。

『世界最強の軍隊とは

アメリカ人の将軍

ドイツ人の参謀

日本人の兵

 では世界最弱の軍隊とは

中国人の将軍

日本人の参謀

イタリア人の兵』

 日本人の参謀がいかに無能であり、日本兵がいかに勇敢であったかが世界に知られている。代表的なのは辻なんとかいう参謀。

 今こそ、当時の本当のことを子供達に教えなくてはならないのに、そんな余計なことはしなくてもいいことになっている。なんでだろう。寝た子を起こすようなことになるのでそれは困るというのかな。

.2006年10月に発行された「検証戦争責任II」の中で読売新聞戦争責任検証委員会は次のように述べている。

「日中戦争が英米との戦争に発展していくプロセスで生じる責任を「開戦責任」、勝てないと知りながら日米戦争に突入し、収括を急がなくてはならないのに有効な手を打たなかった責任を「継戦責任」としてみると、東条はその双方で厳しく責任が問われるのである」

 

.2006年7月には昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示した富田メモが公開された。

 メモの中で天皇は「私は靖国には行かない。(A級戦犯を合祀した)松平は何を考えているのか」と怒りの言葉を述べている。当時はメモの内容にたいして疑わしいと考える人も多くいたものの今では疑いをさしはさむ余地はないと考えられている。

 

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 気候変動

 最近新聞紙上に次のような記事がでた。

『国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)は世界中の数千人の科学者の意見を取りまとめ報告書を作った。それによれば

「今世紀末までに最大4・8度の気温上昇があり、それによって最大80cmの海面上昇が引き起こされ、数億人が土地を奪われ移住を余儀なくされる」

そうである。

 

 今から40年ほど前の1972年に、世界各国の各分野の学識経験者100人からなるローマクラブが発表した「成長の限界」という報告書では次のようなことが指摘されている。その報告書では

「現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達する」と述べ、今までの成長のあり方を見直す必要があることを指摘している。ローマクラブの基本的な認識は「人類による地球への負荷は、経済活動のあり方を変えない限り、地球が吸収できる限度を越えてしまう」ということにある。

 

 開高健は次のようなことを言っている。

「人間が一歩前進すると、自然は二歩後退する」

 ユニセフは医療の劣悪な地域に暮らす子供達を救うことに努力している。すばらしいことなのだけれど、「人口爆発を抑えることにも力を注いだらどうだ」などといえば「不届き者め」といわれるかな。

 私たちの世代はもうすぐあの世に行くので大丈夫でしょうが、これから生まれてくる子供達はどうなるんでしょう。人類だけが滅ぶのはやむを得ないとしても、他の種も巻き添えにするのはどうなんでしょう。相変わらず軍備拡張にうつつを抜かしている暇はあるんでしょうかね。

 

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靖国神社のこと(その二)

 靖国神社には日本のために死んでいった多くの英霊が祭られていることになっている。神社では篤くその霊をなぐさめ顕彰しその祭祀を絶やさずに行ってきた。しかし肝心のその英霊は今では靖国神社から離れ雲散霧消してしまったと私は考える。

 その理由は三つ

.1945年(昭和20年)12月15日にGHQが神道指令を出し、国家と神道が分離してしまったこと。

.1946年(昭和21年)1月1日に昭和天皇が人間宣言をしたこと。

.1979年(昭和63年)いわゆるA級戦犯が合祀され、そのことに不快感を持たれた昭和天皇はそれ以後靖国参拝を止めたこと。

 中でも昭和天皇の人間宣言は決定的な要因となった。

「海行かば」に歌われている「海行かば、水漬(みず)く屍(かばね)、山行かば、草生(くさむ)す屍、大君の辺(へ)にこそ死なめ、かへりみはせじ」の根拠がなくなった。

 多くの兵士は

「日本国民は天照大神の子孫である天皇家を中心にまとまって日本という国を造っているのであり、その日本を護るためにわれわれは戦っている」

のだと固く信じてて死んでいった。しかし肝心の天皇が神でなくなり、日本は神国ででなくなったために、神国日本のために死んでいった多くの兵士の霊は自分の死が何のためであったのかその理由を見失った。

 靖国神社は英霊の拠り所ではなくなってしまった。

 だが昭和天皇がいつの時点においてかこの敗戦の道義的責任を取って退位していたなら英霊はその決意を善しとして再度靖国神社に寄り集まってきていたかもしれない。今では英霊は靖国神社から離れてしまっていて神社はただ徒にその祭祀を執り行っているにすぎない、と私は思う。

 

 加藤典洋は「敗戦後論」の最後のほうで次のように述べている。(  )内の言葉は私が補って書いた言葉です。

『大岡(昇平)は自分の中で「恥ずべき汚点」(=戦時中捕虜になって生き延びたこと)の自覚の薄れるのをこそ恐れて生きてきた。

 その彼に、昭和天皇は、歴代天皇中はじめて「敗戦・降伏」した「汚点」を雪ぎ、威厳を取り戻そうと、退位の道すらとざした「不幸な」存在と見えている。

 この大岡の(昭和天皇重篤の報道に接しての)談話は、天皇を「おいたわしい」、「いたましい」と述べたというので、彼の長年の知友、信奉者を動揺させたといわれる。しかし、大岡の言葉に、いつわりはない。1971年、(レイテ戦記を上梓した功績により)芸術院会員の推薦を受けた時、彼の口から思わず洩れているのは、「恥を知れ」という呟きだとわたしの耳には聞こえる。この「恥を知れ」は、当然、戦争の死者のことを書いた本(=レイテ戦記)で、栄誉を与えようというその与え手、昭和天皇に向けられている。』

 

 (大岡昇平は戦時中、国から「戦え。捕虜にはなるな」といわれていたにもかかわらず捕虜になった。その彼がよりによって「レイテ戦記」を上梓した功績により、芸術院会員になり、褒賞として国から金をもらったり、天皇の前に出たりすることなど、とうてい恥ずかしくて出来ないと考え、芸術院会員に推薦されるという名誉に預かったにもかかわらず、それを辞退した。)

 

 敗戦前も後も多くの人が天皇を自分の思いにひきつけて勝手に自分なりの天皇像を作り上げ、それに従って行動してきた。天皇自身にとってはいい迷惑だったろう。

 

***

「石見町」という名前の由来

 私の出身地である石見町は1955年(昭和30年)4月15日に矢上町、中野村、井原村、日和村、日貫村の五つの町村が合併して出来た。

 石見町の中心部の矢上町、中野村、井原村の三つの町村には古くから邑智(おおち:古くは邑知や於保知の文字が使われていた)郷の名前があり、現在使われている邑智郡の名もそれに由来する。したがって合併してできる新しい町には『邑智町』という名前が付けられるのが順当だと誰も思っていた。しかし合併の中心になった矢上町では新しい町の名前をそのまま矢上町にするつもりで、『邑智町』と言う名前を邑智郷とは何の関わりの無い別の町に勝手に譲ってしまった。ほかの四つの村には何の相談もなかった。

 その町では一旦は遠慮したらしいが、矢上町が

「安心しんさい。矢上という名前は古くから使われている名前だけぇ、新しい町名には矢上町をそのまま使うけぇの」

 と強く勧めたので、それではということで、由緒ある「邑智」という名前をありがたくいただいて「邑智町」という名前を付けた。

 

 矢上町以外の四つの村は新しくできる町の名前を矢上町と名づけるという方針に強く反発し、新しい町長には矢上町以外の四つの村が推す候補が当選した。

 当時私の父は新しい町長を決める選挙で選挙カーに乗って応援演説に飛び回っていた。その車は矢上町の町内を通ることは避けて、矢上町以外の四つの村だけを廻った。父の話ではやむを得ず僅かな距離だけ矢上町の中を通らなくてはならない場所があり、そこを通るときには旗や候補者名などを書いたのぼりなど目立つものは全部取り外して、何食わぬ顔をしてそっと通り抜けたそうだ。

 新しい町の名前も議会の数に物を言わせて、「矢上町」ではなく『石見町』と言う名前をつけることになった。新しい町名は矢上町になるとばかり思っていた邑智町では石見町と言う立派な名前がついたことで

「俺たちはだまされた」

と大いに怒ったそうだ。

 

 新しい町の名前を決める時に、私の父は当時高校生だった私に

「新しい町の名前のことだが、どがぁな名前にしたらよかろうかのぅ」

と聞いてきた。

 私はしばらく考えてから

「今住んどる土地が石見の国の中でも古くから開けた土地だけぇ『石見町』という名をつけんさったらどうかのぅ」

と言った。

 父は硯を取り出して、床の間の前に座って墨をすり、「石見町」と言う名前を毛筆で半紙に書いた。それを手に取ってじっと見ながら父は

「うん、こりゃぁええ名前だ」

と言った。

 それからしばらく経ってこのことはすっかり忘れた頃になってから、父は私に

「新しい町名は石見町に決まったけぇの」

と教えてくれた。

 私は非常に驚いて、脚の震えるような感じを抱いた。

 しかし町名が決まったそのいきさつは聞かなかったし、父も詳しいことはなにも話さなかった。このことがその後、家で話題になることもなかった。

 私としては、『石見町』と言う名前は私が考えた名前だといいたいのですがそれはなんとも言えません。他にも石見町という名前を提案した人がいたんでしょう。

 その石見町も2004年(平成16年)10月1日に瑞穂町、羽須美村と合併して、『邑南町』と言う名前になり、今では石見町と言う名前はなくなった。「おおなんちょう」という名前を初めて聞いたときになんだか語感の悪い言葉だなと私は思った。「おぉ、なんちょう」などと変なところで切ったら誤解を生むだろう。「いわみちょう」のほうがはるかに歯切れがいいし語感がいいと今でも思っている。

***

   老人性早とちり症

 先日私がテレビを見ていると別の部屋にいた妻が突然大きな声でわけの分からないことを言った。そんなに珍しいことではないので私は慌てず騒がずそのままテレビを見ていたら、

「あなたの保険証をシュレッダーにかけてしまった」

と言う。

 保険証の使用期限切れの日付をよく読みもせずにこの保険証の使用期限が切れたものと思い込んでシュレッダーにかけることにしたものの、保険証が半分ほどシュレッダーの中に入ったところで使用期限の日付が眼に入ったらしい。

 私としては再発行してもらえればいいことだし、もう済んだことだし「あっ、そう」と言う感じだったのだが、妻にとっては自分の早とちりが結構気になって仕方ない様子だった。

 

 早速区役所に行って再発行の手続きをした。書類に住所氏名生年月日電話番号などを記入し終わったとたんに

「はいできましたよ」

 と新しい保険証を手渡された。新しい保険証が手元に届くまでに少なくても一週間はかかるだろうと思っていただけに、私は思わず

「えっ、本当ですか。早い」

と叫んでしまった。料金もかからなかった。

 それにしても妻は「老人性せっかち症」のほかに「老人性早とちり」症も併発したのかもしれない。

 

***

あれ何

 妻は実にタイミングよく問いかけてくる。

 私がパソコンに向かっていると

「今晩のおかず何にする」

 私がテレビドラマを見ていると、妻は食事の支度をしながら

「あの人何をしたの」

 ドキュメンタリーを見ていると

「あの城何という城」

「急に言われてもなぁ」

と思いながら、どう答えようか思案しながらもたもたしていると、その間にドラマもドキュメンタリー番組もどんどん進行してゆく。その上また少し間をおいて

「あの俳優だれだっけ」

「あのお寺に一度行ってみたいね」

 かくして、私の頭は次第に混乱してくる。妻の問いかけに的確に対応しながらしかもドラマの成り行きも見逃さないというほど私は器用ではない。

 その有様を見かねるのか、妻本人から、時に

「うるさいでしょう。無視すればいいのよ」

 と親切な忠告が発せられる。

「確かにそれはそうだが、そういってもなぁ」

 と私は重ねて思う。

「あなたは細かいことがわからなくてもテレビを見ていられるのね。私は細かいことが気になるのよ」

 と補足説明をしてくれる。

 

 話は変わって、この前阿川佐和子の「残るは食欲」というエッセーを読んだ。そういえば以前「ああ言えばこう食う」というのも読んで面白かった記憶がある。悪友檀ふみの「年とともに愛欲も物欲もなくなってきて、残るのは食欲」と言う言葉からヒントを得て「残るは食欲」という題にしたのだそうだ。

 私の場合その食欲もたいしてなくて、自分が生きているのかいないのかはっきり分からない。まぁ少し残っているとすれば「知的好奇心」か。「それもなくなると」と考えるだけでいささかそら恐ろしい気持ちがする。

 

***

古典の素養

 海音寺潮五郎は「覇者の条件」の中で次のように述べている。

「近頃は学校の教育法がかわって来まして、先生が噛んで噛んでドロドロにして、おいしい味をつけて、匙で舌の上にのせてくれるような教授をするのがいい教え方ということになり、世間もそう考えるようになっていますので、人々は自分で考え、自分でまとめ、自分で判断する作業が出来なくなっている・・・」

 私は高校時代、国語の時間に

「高校生活は仲間との付き合いの場であり、勉強は自分でやればいい」

という趣旨の作文を提出したことがある。先生からは

「それはそうだが、そうもいかない」

みたいな煮え切らない返事が返ってきた。

 今の時代、それぞれの教科の骨子だけを教えて、後は自分で勉強しろみたいなことをいっていたら、たちまちたくさんの落ちこぼれが出来て、父母からは大変な顰蹙を買うだろう。

 

 最近今東光の「弱法師(よろぼうし)」を読んだ。よく知られている弱法師は乞食に落ちぶれた俊徳丸の物語だが、東光の弱法師は源平時代を生きた僧兵の物語で、この作品を読むと東光が古典の造詣に実に深いことがよくわかる。現代文を読むような調子で「平家物語」などの古典を読みこなしていたんだろうなと思われる。東光に限らずその時代の作家達はおしなべて古典や漢文の素養が深い。

 

***

あなたのものは私のもの

 私の机の上から鉛筆、消しゴム、辞書、本などがある日忽然と姿を消す。そして思いがけないところに姿を表すことがある。

妻に

「俺の消しゴム知らないか」

と聞くと、しばらくして

「はい、これでしょ。あなたの代わりに使っておいてあげたから」

と言いながら消しゴムを差し出す。

「元に戻しておいてくれなくちゃ困るじゃないか」

と言うと

「いいじゃないの。あなたのものは私のもの。私のものは私のものなのだから、どう使おうと、どこに置こうと私の勝手でしょう」

 そう確信を持ってきっぱり言われると、思わずあなたのおっしゃる通りですといいたくなる。理不尽さを感じつつまぁいいかと納得してしまう。

 かくして私は今日も行方不明のシャープペンシルや消しゴムなどを探すことになる。

 

 この前も、紙きり用のはさみが必要になったので、確か机の引き出しに入れておいたはずだと思って探したが見当たらない。引き出しから落ちて机の陰にでもあるかもしれないと探したが出てこない。もしかしたらと居間の筆立てを覗いたら間違いなくそこに立ててあった。

 妻に

「どうしてこんなところにあるんだ」

 と聞いたら、にこっと笑って「さぁ」というような顔をした。

 

***

入院(その一)

 妻はたまに腹部に激しい痛みを感じることがあった。痛みが始まると七転八倒の苦しみを味わい、それが過ぎると何事もなかったような日々が過ぎてゆく。

 数十人の医者を抱える大きな病院で精密検査を受けたら

「胆嚢に結石がたまっています。胆管を塞ぐと命に関わります。すぐに手術をして胆嚢を取りましょう。この病院の玄関を一歩外に出た途端にパタッと倒れて命を落とすこともありますよ」

と脅かされた。

「手術にはどれくらいの日時が掛かるでしょうか」

と聞くと、

「検査などいろいろ含めておよそ一月ほど入院してもらいます」

ということであった。

 胆嚢を切除した友人達から入院は一週間ほどで済んだという話も聞いていたので、かかりつけの病院の先生の意見も聞いたうえで、別の大きな病院で診察を受け直した。そのときに次のような説明を受けた。

「手術前の検査は通院しながら受けてもらいます。手術のための入院は二、三日ほどで済みます」

 私たちは入院期間の長さがあまりに違うので驚いてしまった。

 早速妻は入院の手続きをし手術を受けることにした。そして医者の言葉通り手術後三日目には無事家に帰ってきた。その後、定期的に術後の検査を受けているものの異常は見られない。

 しかしそれにしてもどこからこのような入院期間の大きな違いが出てくるのだろう。「入院期間一ヶ月」という診断はどういう基準でだされたものだろうと時々わが家の話題になる。

***

 入院(その二)

 これも同じ例の大病院での話し。

 私の息子は風邪を引いたとき下痢がひどく、血便もあり、例の大病院に掛かったところ、一週間ほど緊急入院を命じられた。息子はやむを得ず大切な出張をキャンセルし、入院することになった。入院中はさまざまな検査を受けた。

 下された病名は潰瘍性大腸炎。一生薬を飲み続ける必要があるということであった。退院した後、検査結果などについての医師の説明があるということで、職場を丸一日欠勤し、医師の説明を受けることにしたが、医師の説明は実にぞんざいなもので、とても納得のいくものではなかった。口の中でぶつぶつ言うばかりで、はっきり聞き取れず、患者は黙っていろといわんばかりの調子だったそうだ。

 その後診断結果に不審を持ち、別の個人病院に掛かった。その病院では当初出されていた山のような薬を徐々に減らしていって、半年ほどで全く薬を飲む必要がなくなってしまった。今では何の支障もなく普段どおりの生活を送っている。

 最初の一週間の緊急入院からして果たして必要なものだったのかどうか、最初の症状は単に風邪を引いたことによる二次的な症状に過ぎなかったのではないか、医者は患者に対してなぜ納得のいく説明をしなかったのか、医者の診断を鵜呑みにして通院し薬を飲み続けていたら今頃どうなっていたのだろう、などなど今もって疑問に思うし、家族の間でも話題になる。病院に対し大きな不信感を持った。

 何事によらず、セカンドオピニオンの必要も感じる。

 

***

もしもしかめよ

 この前妻に

「家の前に雪がたまっていますよ。雪掻きをしてください」

としつこく言われた。

 しぶしぶ外に出て雪掻きをした。わずかばかり残ったところで、車庫の中に入りしゃがみこんで他の仕事をしていると、背後でどすの利いた低い声で歌を歌うものがいる。

「もしもしかめよ、かめさんよ」

 びっくりして慌てて後ろを振り向くと、妻が手を後に組んでニコニコしながら、首をかしげて私の仕事ぶりをじっと見ている。

 あまりびっくりしたので、車庫の外に出て雪だまを投げつけようとした。危険を察知した妻はそのまま黙ってさっと身を翻して逃げた。追いかけるそぶりを示すと急いで玄関に入り、玄関の戸をしっかり閉めた上に中からガチャガチャ鍵を掛ける音がする。私は諦めて残りの雪掻きを続けた。

 雪掻きを続けていたら

「ごくろうさん」

という声がする。あたりを見回すと、ベランダのガラス戸が少し開いていて、戸の隙間から妻がこちらを覗いている。目が合った途端に妻はアッカンベーをして戸を閉めてしまった。

 妻は私の思いもよらない方法で、思いがけないときに驚かせてくれる。妻は

「私と一緒になったおかげで、人生を百倍楽しめるでしょう。退屈しなくていいでしょう」

 と言っている。確かにそう言われればそうとも言える。

「私に逆らおうなんて十年は早いのよ」

 と脅されることもある。

 

***

言い間違い・聞き間違い

 駐車場でカーラジオを聴いていたら次のような話をしていた。

一.ホテルに泊まっていて「朝六時にモーニングコールをお願いします」というところを

 「朝六時にコレステロールをお願いします」と言った。

二.小さい頃、選挙カーで「ご声援ありがとうございます」と言っているのを

 「五千円ありがとうございます」と言っていると思っていた。

三.高速道路走行中に

「バンパーが落ちている」と言ったら

「えっ、ばばぁが落ちている?」と聞き返された。

四.「フォークグループのオフコースってどういう意味?」と聞いたら母が

「料理が順番にでてくることよ」と答えた。

五.放送で「~なんですが」というところを

「~なんでがす」と言っていた。

六.旦那とケンカして

「そこをどいてよ」と言うつもりで

「そこをだいてよ」と言った。

七.子供の頃

「あなたがかんだ 小指が痛い」というのを

「あなたがたがかんだ 小指が痛い」と覚えていた。

八.「新鮮なあぶりがつをお願いします」と言うところを

「新鮮なアフリカゾウをお願いします」と言った。

 

***

小学校一年生

 札幌市では小学校の新入生には一人一人にランドセルのふたにつける黄色いカバーを配布している。

 ある日散歩の途中で赤信号で足止めされて、横断歩道の手前で信号が青になるのを待っていた。そのうち気が付いたらいつの間にか黄色いランドセルの集団に取り囲まれていた。小学校の新入生たちはてんでにたわいもないことをしゃべりたてている。私は何とも言えないうれしい気持ちになった。

 一人のかわいい女の子が別の女の子に、

「おい、お前。(なんとかかんとか)

 と話しかけている。この子が大きくなったら愛する旦那様に

「おい、お前。稼ぎが少ないぞ」

 などとごく普通に話しかけているんだろうなと思っているうちに、信号が青になってみな横断歩道を渡り始めた。私が横断歩道を渡り終わらないうちにあのやかましくしゃべりまくっていた黄色いランドセルの集団はいつのまにかどこかへ消えていなくなった。

 しかしこの時の驚きと幸せな気持ちは今もよみがえってくる。

 江戸時代は庶民の間では男女の間に言葉遣いの差はほとんどなくて、その差が出てきたのは明治時代に入ってからだそうだ。マンガ「ドラえもん」の中でしづかちゃんが使っているようなしとやかな女の子らしい言葉は間もなく絶滅危惧種になるだろうという見方もある。

 

***

「マジっすか」

 私はある小学校で休日に頼まれれば働いている。

ある日例によって仕事をしていたら

「これをどうぞ」

と言いながら、女の先生にまんじゅうを差し出された。

 私はたまたまその時ロイヤルゼリー入りの飴玉を持っていたので、まんじゅうのお返しに

「この飴には蜂蜜ロヤルゼリーが入っていて、なかなか手に入らないんです。一粒なめれば十年は若返るそうです」

と言いながら飴玉を差し出した。すると

「うっそー。マジっすか!」

とその女の先生は素っ頓狂な声を出した。まさか教え子にも決して同じような言葉は使わないだろうが

「う~ん、時代はここまで来たか」

と深く感動した。

 テレビを見ていたら、現地レポーターが人の姿が全く見あたらない通りを見ながら

「この通りはにんきがありませんね」

といった。

 確かに「にんき」(人気)がないと人が集まらない。したがって「ひとけ」(人気)もなくなる。間違った言い方をしているとも言えないような気がしてきた。

 テレビで大学生の生活について報道をしていた。

「馬鹿なことをしているな」

といったら妻が

「あなたはどうだったの」

と聞いてきた。少し考えて

「あほなことをしていた」

と答えたら、妻が

「ふぅ~ん。馬鹿とあほは違うんだ」

 そうです。皆さん馬鹿とあほは違うんです。

 

***

今を生きる

 「ザ・カリスマ・ドッグトレーナー」というテレビ番組がある。ケーブルテレビで放送されていて、世界110か国以上で放送されている人気番組である。

 番組の中でシーザーというドッグトレーナーが問題のある犬の行動を劇的に変えてゆく。見ていると問題を起こす犬はほとんど飼い主にその原因がある。自分自身が過去の悲しみを引きずったり、将来の不安にさいなまれて緊張しているとそれが犬にそのまま伝わり、問題を起こす犬になってゆく。

 犬は人と違って今だけを生きている。過去を引きずらない。犬の行動を変えるのには飼い主が気持ちを切り替えるしかない。心を穏やかにし今を自信を持って前向きに生きていくことが大切であるという。 私はこの言葉に深く納得する。

 

***

デカンショ

 「デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ

   あとの半年寝て暮らす ヨーイ ヨーイ デッカンショ」

 丹波の国の盆踊り歌であるデカンショ節の出だしの「デカンショ」の意味については諸説あるものの、一般によく知られている説は「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという説である。これはデカンショ節発祥の地篠山市での公式見解にもなっている。

 半年を寝て暮らすとすると一日当たり12時間寝ることになる。いくらなんでもこれは少し寝すぎだろう。後の半年はどうしようもない思索にふけって半年を過ごす。実にうらやましい身分である。ところが私の最近の生活はこのうらやましい身分に近づいてきた。しかし私は所詮は俗物であり、「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」。暇をもてあますとろくなことは考えないし出来ない。頭に浮かんでくるのは妄想だけである。そこで思い出したことがある。

 

 高校時代疑問に思っていたことがあった。

.同じ歩行者を見るにも立場によって変わってくる。

 1.歩いているときに見る歩行者

 2.自転車に乗っているときに見る歩行者

 3.バスに乗っているときに見る歩行者

 同じ歩行者を見るのにも、そのときの見る立場によって変わるのはなぜか。

.物を見たり聞いたりするのに所詮は自分の目で見、自分の耳で聞き判断するしかない。他人の目で見、他人の耳で聞いて判断することは出来ない。これはなぜか。

.見たり、聞いたり、考えたりするとはどういうことか。

 

 今思い出しても実にくだらないことで

「お前バカか。そんなこと決まってるだろう。つまらないことを考えないで、もすこしまともなことを考えろ」

 といわれるのが落ちだ。しかし

「そういわずに納得の行く答えをしてくれ」

 とつっこまれると、これがなかなか難しい。こういったバカバカしい疑問に答えを出すべくずっと考え続けていたら、今頃はフッサールの現象学にも匹敵するすばらしい学説を発表できていたかも知れないが、多分家族にも誰にも見放されて、今頃は路頭をさまよっていただろう。しかし私にとっては実に幸せであったことには、これらの疑問はいつの間にかどこかに行ってしまった。私のようなやわな人間にとっては所詮手に負えない代物だった。

 私は最近暇に任せてこれらの疑問を少し考えてみようと思うようになった。 このバカバカしい疑問も

.「志向性」とは何か

.「主観と客観」との関係はどうなっているのか

.「知覚と認識」との関係はどうなっているのか

 などともっともらしい言葉を使って言い換えてみるとそれなりに格好が付いてくる。

 幸い考える時間はたっぷりある。ろくでもないことを考えて暮らすよりは少しはましだろう。人生は長い。これから考え続けたらフッサールの足元ぐらいにはたどり着けるかもしれない。脳細胞が活性化されて多少は長生きできるだろう。

 しかし考えてみるといわゆる西洋の哲学なるものは実にばかばかしいことを真剣に考え続けて生きた歴史でもあるんです。

 

***

遠山に 雪の残りて 玉叩く

 暑すぎることもなく、寒すぎることもなく、吹いてくる風も心地よく、心もからだものびのびして一年で一番暮らしやすい時期になってきた。パークゴルフをするのにも最適な季節を迎えた。

 しかし過ごしやすい気候かどうか、花が咲いたかどうかなどには全く関わりないところで日々パークゴルフは行われる。これは一年中変わらない。

 パークゴルフをやりながらお互いに、人の失敗は大いに喜ぶ。

 自分の失敗は人のせいにする。

 くだらない駄洒落を飛ばして大いに盛り上がる。

 ボールがオービーラインすれすれで止まって、セーフになると、

「惜しかったなぁ、もうちょいだったのに」

と残念がられる。

 ボールが立ち木などに当たってオービーラインを超えて外に出ると、

「おぉ、やったー、サヨーナラ、サヨーナラ、元気でいてね」

と鼻歌を歌われる。

 ボールがホールすれすれのところで止まって、ホールインワンを逃すと、

「日頃の行いが悪いからよ」

 反対に調子がいいと、

「帰り道は気をつけたほうがいいぞ。特にトラックにはな」

と忠告される。

 新しいボールに変えたり、クラブを新調してもそれだけで急に腕前が上がることは絶対にない。相変わらずオービーやボギーを出したりすると、

「おぃ、そのクラブ合ってないんじゃないか。古いクラブに戻したほうがいいぞ。新しいのは捨てたほうがいいよ。ただ捨てるときには必ず捨てる前に教えてくれよな。出来れば月夜の晩がいいんだが」

と親切で余計な節介をされる。

 しばらく姿を見せないと、命に関わる病気で入院したか、もしくは既にあの世に行ったことにされてしまう。

 パークゴルフ場では年がら年中こんなことをやっている。

 年を取るにつれて顔なじみが年々すこしづつ姿を消していく。今年は更に人数が減ってしまったので、しょぼくれて玉を叩いていたら久しぶりに昨年の仲間が顔を現した。

「おぉ、久しぶりだな。よかったな。生きていたのかい。脚はちゃんとついているのか」

 相手が昔どんな仕事をしていたのかも、年がいくつになったのかも、何もどうでもよく、しゃべりながら、ただ玉を叩いては歩き、歩いては玉を叩く。遠くの山に雪が残っていようがいまいが、桜が咲こうがつつじが咲こうがアジサイが咲こうが、暑かろうが寒かろうが全く関わりはない。「パークゴルフ場八景(ばっけい)亡者の玉叩き」のようなものだ。

 来年もこの調子でやれればいいのだが、一年ともいえない年頃なので、それはどうなるのかわからない。

 

一人去り 二人去りして 玉叩く 奴いなくなる パークゴルフの里 (天邪鬼)

一つ取り 二つ取りては 焼いて食う  鶉(うずら)なくなる 深草の宿 (蜀山人)

夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の宿 (藤原俊成)

黄昏やぶよに追われて球を追う

秋の宵ただただ球を追って打つ

友ら逝き一人球打つ秋の暮

 最近はほとんどパークゴルフはやらなくなりました。

 

***

葬儀もいらない、墓もいらない

 最近 いろいろと人様のエッセーを読んでいる。山田風太郎の「あと千回の晩飯」などを読むと実に腰が入っている。私のようにあれが面白いといえばそちらにふら~となびき、これがいいと思えばこちらにふら~と引き寄せられるような薄っぺらな輩とは根本的に出来が違う。向こうは何しろ年季が入っている。

 私のように寄せ集めで付け焼刃の知識をなるべく控えめにめだたないようにそれとなくひけらかして、一人悦に入るような恥知らずとは人間の格が違うのである。私の慎みをしらない言動は小人(しょうじん)の小人たる所以であり、大人(たいじん)の真似をしようとしても到底出来ない。

  山田風太郎はアルコールと煙草が大好きで自ら「アル中ハイマー」を称していた。七十二歳の頃、自分の寿命はあと三年と自分で見限り「あと千回の晩飯」という日々の雑感を書き始めた。私の場合に当てはめると、後十年は長生きできると勝手に思い定めているから、喰える晩飯はあと三千六百回以上ということになる。

 そのあと人様にさしたる迷惑をかけずに無事あの世に行った後をどうするかということになれば、身内だけの葬儀をしてもらって、その後で納骨をしてもらう。骨を保管する墓はなんとか用意しておこうと真剣に考えている、ということに表向きはなっている。だが実のことを言えば内心ではその葬儀も要らない、墓も要らない、もちろん戒名も要らない、骨と灰は海にでも山にでも川にでも畑の隅っこにでも適当にばら撒いてもらえれば本望だと思っている。

 息子にそれとなくこの話をしたら

「そんな面倒なことは止めてくれ」

と即座に断られてしまった。

 散骨するならするでそれなりのややこしい決まりがあって、そこらそんじょに行き当たりばったりにばら撒かれては、はた迷惑だということになっているのだそうだ。私は初めて聞いた。

 こうなるとうかつに死んでもいられない。しかし考えてもみてもらいたい。人の死後その人の墓と墓に納められた骨が二百年後も三百年後も立派に生き残り、その人の子孫に「これがご先祖様のお墓だよ」と参拝されるなんてことは日本中探してもめったにないことであるに違いない。だから葬儀も墓も要らない、骨と灰は海にでも山にでも川にでも畑の隅っこにでも好きなところに勝手にばら撒いてもらいたいと心から望んでいるのである。

 息子には私の意を汲んでもらいたいと真剣に考えてはいるのだが「そんな面倒なことは止めてくれ」とやはり即座に断られるだろうなぁ。

 

***

田舎の選挙

 私が高校時代までを過ごした田舎では、選挙があると、投票日の前日近くになると集落の要所要所で、運動員が竹槍を手にしてかがり火を炊きながら、一晩中立って見張りをした。

 見知らぬ人が通りかかると呼び止めて

「あんた、どこへ行きんさるんかのぅ」

と誰何(すいか)して、その人がどこへ行くのか聞く。怪しい動きをするとその後をついて歩き、どの家に入っていくのかをしっかり確かめる。

 数年前に帰省したときに私が昔の選挙の様子を話すと、兄は

「今でも、そうだけぇの。竹槍は持たないが」

と言った。

 兄の話では候補者の獲得する票数は事前に分かっていて、その予想と数字が違うときには、詳しく調べると誰が違う候補者に投票したのかすぐにわかると言っていた。選挙風景は今も昔と変わっていなくて驚いた。

 

 私の父も時々選挙に借り出されていた。

 県会議員選挙が終わってかなりの日数がたったころ、突然警察の捜査官が数人わが家を訪れて、家宅捜査に入った。父に直接金を渡し、その金を使って買収するように指示を出した運動員が逮捕されたために、警察の事情聴取があるかもしれないので気をつけていてほしいという連絡があった。したがってこの日が来ることは前から予想されていた。しかし実際にその日が来ると家族のものは動揺した。

 一人の捜査員が父と直接話をし、他の捜査員は家族のものにその場を動かないように指示し、家中の押入れや机の引き出しなどを一つ一つ丹念に調べて廻った。結局証拠らしきものは何も見つけ出すことができないまま捜査員は引き上げて行った。

 当時の買収は金を直接渡すよりか煙草一箱など身近な品物を渡すのが一般的だったと思う。有権者を招待して飲み食いをさせることもよく行われた。

 その後父は呼び出しを受けて、しばらくの間警察署に留置され取調べを受けることになった。いわゆる「くさい飯」を食べることになった。人生初のそして最後の経験であった。その警察署は郡庁の置かれている別の離れた町にあり、母はバスに乗って何回か差し入れに通った。

 父が上のほうから受け取った金は「落としました」の一点張りでそれ以上のことは自白しなかった。その証言を裏付けるために自分でズボンの片側のポケットの底に穴を開けてそれを証拠品として提出した。

「上のほうから預かった金はズボンのポケットに入れておいたんだが、どっかで落としてしもぅた。どこで落としたかはわからん」

と主張したらしいが、そのズボンが正式に証拠品として採用されたかどうかはわからない。いずれにしても他には何も自白することなく釈放されて帰宅した。

 父から直接金品を受け取った人々は警察に呼び出されることを覚悟し、いつその日が来るか戦々恐々とした毎日を過ごしていたものの、警察からの呼び出しがなかったので父に大変感謝した。

 裁判でも「渡された金は落としました」と主張し続けたが、結局有罪になり、二年間の公民権停止を言い渡された。その間は選挙に関わる一切の行為ができなくなった。その期間が終わると父はやれやれといったうれしそうな表情をしていた。

 私は父に

「選挙運動はもうやめんさいや」

と言ったら、父は黙ってうなづいていた。その父も亡くなって四十年以上立つ。

 今では大ぴらな買収はなくなったのだろうが誰が誰に投票したのかははっきりわかる仕組みになっているらしい。

 

***

同時に二つのことができない

 昔テレビで次のようなことを放映していた。

 女性は電話で男の人と話しながら一方の手で手紙を書いている。電話でもしっかり用件を伝え、手紙もさらさらと書いていた。二つの異なった仕事を同時に平行して立派に行っていた。立場を変えて男のほうに台所仕事をさせながら電話で話をさせたら、話すほうが支離滅裂になり、台所仕事もいい加減なものになってしまった。

 この話を妻にしたら妻は電話をしながら文章を書くのは朝飯前だと言う。改めて私は驚いた。

 私について言うと、以前はよく車を運転中、特に交差点に差し掛かると、

「一寸待ってくれ。話をしないでくれ、今忙しい最中だから」

などと言っていた。交差点で周囲に気を配りながら車を運転し、同時に会話も成り立たせるような神業は私にはとてもできない。妻は最近信じられない思いで私の言葉を聞いていたと話してくれた。

 しかし妻は地図が読めない。運転中ナビゲーターを頼むと車の方向が変わるたびに地図が上下逆さまになったり横になったりする。妻はこの話を友人に話したら

「私もそうよ」

と言われて安心したと話していた。

 私について言えば、地図はある程度頭の中に入っていて、ほぼ間違えずに行き先にたどり着ける。

 これは生まれ付いての男女の違いでもあるとある本で読んだことがある。

 

***

ラーメンの安売り

 いつもは息子の出勤にあわせて六時半には朝食を済ませ、朝七時にはパークゴルフ場へ出掛けているのに、今日は午前中大きな大会が入っていて出掛けられない。ゆっくりおきて、ぼぉ~っとした頭で新聞を読みながらのんびり朝食を食べていた。

 妻がチラシを見ながら聞いてきた。

「生ラーメンの安売りをしているのだけれど、どぅする?」

「ふぅ~ん」

「久しぶりにラーメンにする?」

「ふぅ~ん」

「やめる?」

「ふぅ~ん」

「食べたいの、食べたくないの、どっち?」

「ふぅ~ん」

 妻はいきなり立ち上がって

「ふぅ~ん、ふぅ~ん、にゃぉ~ん、わん、わん」

と言いながら部屋のドアをバンと閉めて出て行ってしまった。

 その日はラーメンが食卓に昇ることはなかったが、数日後の夕食にラーメンが出た。ラーメンは息子の好物でもある。

 妻は

「久しぶりにこれを食べるのもいいな、しかし一応相手の気持ちを確かめておきたい」

というような場合、相手に自分の望んでいる方向に決めてもらうべく、巧妙な誘導尋問を繰り出すことがある。私はそれを察して、

「ウン、いいね、それにしよう」

と積極的に応えると、その場が丸く収まる。

 しかし、内心「それはあまり食べたくないな、しかし相手の気持ちを害するのもいやだし」と思ったり、

「そんなことどっちでもいいだろう、適当に決めたらどうなの」

などと思っている場合にはやっかいなことになる。妻は

「どっちでもいいよ」

などという中途半端な返事を非常に嫌う。これがわかっていても思考力が鈍っていると、

「ふぅ~ん(どっちでもいいんだけど)」

などといういい加減な返事をして、妻の気分を著しく害することになる。

 言葉の駆け引きは実に難しい。

 

 妻も長年一緒に暮らすうちに空気か水のような損じ兄なってしまった。私は空気や水のありがたさを分かっているつもりでいるものの実際には妻をないがしろにしたりすることがある。

 その妻が最近私に対して遠慮会釈がなくなってきたんじゃないかと感じることが多々ある。それも草取りとか雪掻きとかゴミ出しなど、言われる前にさっさとやればいいものをなんとなく先延ばしにしていることが原因になっていることが多い。     

 先日、妻が大庭みな子の「むかし女がいた」という本を見せてくれた。その中に次のような文章が載っていた。

     

むかし 女がいた

一(ひと)こと言えば

十(と)こと返ってくるのだから

黙っているほうがよい 男は思った

 

「あれ 何の音」 と訊かれて

「さあ わからないね」

と答えることは赦されていない

むかし 軍隊では

「知りません」という答えは赦されず

「忘れました」と答えることになっていた

時と場が変われば

「記憶にありません」

という答え方もある

しかし 「あれ何の音」

という問いには「忘れました」も

「記憶にありません」も適当ではない

したがって ほんの思いつきを述べるのも

やむをえないことになる

(以下まだまだ続く。しかし長くなるので省略)

 

***

農地解放

 戦後まもなく小作人に対して農地をただ同然の値段で払い下げるという農地解放が行われた。わが家もその例に洩れず多少の田畑や山林が農地解放の対象になった。

 祖先伝来の山林や田畑を人手に渡さないために父は父なりにその対策を立てた。

 

 まず開放される予定の田畑についてはその田畑は私の資産であるということにして私を分家させようとした。しかし当時私は小学生であり、分家をするのにはなにぶんにも幼すぎた。そこで跡取り息子のいないしかるべき家を探し出して、その田畑は私が養子に入るときの資産であるということにして養子縁組をした。私の戸籍はその家に移り私の姓が変わったので、学校では新しい姓で名前を呼ばれることになった。しかし私は今まで通り実家で暮らし、実家から学校に通ったので、戸籍が移っただけの形ばかりの養子であった。

 その家には私より二つばかり年上の娘がいたので、ゆくゆくは二人を一緒にする積りもあったのだろう。

 父は開放される予定の田畑は、私を養子に出すときに私に付けた資産であり、勝手に取り上げられては困ると強行に主張した。だが結局父の言い分は受け入れられず、田畑は他人の手に渡ることになってしまった。

 父は大事な田畑を

「小作人に取られた。取られた」とよく話していた。

 その後も数年の間、私は学校では新しい姓で名前を呼ばれていたが、中学生の頃には養子縁組も解消され、私はまた実家の姓を名乗ることになった。

 

 家や田畑の近くにあり、薪を取ったり、山に生えている笹や草を刈り取って田畑の肥料として利用したりするような山林を今では「里山」と呼んでいる。このような「里山」と呼ばれる山林も田畑を耕作するのには必要であるということで開放の対象になることがあった。

 父は家の近くにあった山林が開放の対象になったこと知ると、酒を持参して農地解放委員のリーダーの家を訪ね、その山林の払い下げを免れることが出来たらお前に安く売り払うからうまく取り計らってくれと頼み込んだ。その裏工作がうまくいきその山林は取り上げられるのを免れることができた。

 農地解放の嵐が一段落して、その委員が父に約束の履行を求めると、父はそんな約束はした覚えがないと白を切り、約束を反故にしてしまった。その委員はうまくしてやられたと非常に腹を立てたが、もともと口約束に過ぎなかったことだし、ことがことだけにそれ以上問題が大きくなることはなかった。

 山林は残ったものの田畑は人手に渡り、父はご先祖様に申し訳ないとよく嘆いていたが、やむを得ないことでもあった。

 

 地主が小作人を差別する意識は、父の世代が健在の間は田舎には根強く残っていた。

 例えば、今から三十年以上前のこと、旧地主の娘がある人を好きになった。ところがその家の当主である娘のおじいさんは、娘が好きになった人が昔の小作の倅であるという理由で強く反対した。娘は反対を押し切ってその人のところに嫁に行ったものの、ろくな嫁入り道具は持たせてもらえず、ほとんど着の身着のままで嫁入りすることになった、という話が身近にあった。

 

 昨年帰省したときはもうそんな時代ではなくなったという実感を強く持った。

 

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規則に縛られる

 退職して間もなくのころは、ユースホステルを利用してよく貧乏旅行に出かけた。

 あるユースホステルに泊まったときのこと、寝るときには一人だったのに、朝目を覚ましてみると二人の外国人が同室に寝ていた。オランダから来た高校留学生であった。私が出かける準備をしていると熱心に話しかけてきた。怪しげな英語をあやつりながら聞くと、どうやら日本の学校での軍隊生活を思わせるような規則ずくめの生活に大いに不満があるらしかった。朝の慌ただしい短い時間ではあったものの、日ごろの疑問を丁寧に聞いてもらえて、その高校生は大いに満足したようだった。

 天邪鬼である私は自分の好きなように動き回るのがよくて、人から指図されるのは好きになれない。妻に言わせれば、それは単に私が自己中であるということに過ぎないという。そう言われれば、確かにそうとも言える。

 

 日本人はどうしてこうも、日常の行動を規律で縛ったり、群れて団体で歩き回ったり、右へ倣え方式の行動が好きなのだろう。司馬遼太郎さんはそれを「日本人の公(むら)意識」ともよんでいる。

 司馬さんは「この国のかたち(一)」の中で次のように書いている。

 「日本人はつねに緊張している。ときに暗鬱でさえある。理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい」

 司馬さんは中国の人民公社をいくつか訪れた。それは文化大革命真っ最中という異常な緊張期にであったにもかかわらず、

 「日本なら土俗とも言うべき公(むら)意識から、となりのムラに負けるなと自分を鼓舞したり同僚を煽ったりするところだが、中国の人民公社にはおおよそそういう気勢が見られず、いわば怠けていた。下部の生産隊(日本の字(あざ)にあたる)にいたるまで駘蕩としていて、これでは国も容易じゃないだろうと思ったりした」

 

 話変わって、今から二十年ほど前の私の郷里の村での話。

 退職した未亡人がこの村にやってきて集落と集落との境近くに土地を求め家を建てた。そこまでは良かったのだが、役場から回覧されるはずのいろいろな知らせが届かない。要するに集落の一員として認めてもらっていなかった。一方の集落に入れてもらえるように頼んだものの断られ、それじゃぁというのでもう一つの別の集落へ入れてもらうように頼んだもののこれも断られてしまった。困ってしまって役場へ行って自分の家一軒だけの集落を認めてもらえるように頼んだそうだ。その結果どうなったのか残念ながら聞き漏らしてしまったが集落から外されていたのは間違いない。その家は今は住む人もいなくなり、家だけがぽつんと取り残されて建っている。

 

 これもごく身近な人の話。その人の嫁さんの両親は別の村から引っ越してきたのだが、引っ越してきて見たものの、永い間集落の一員として認めてもらえなかったそうだ。

 共産党候補を応援する家は今でも村八分になっていてまともに付き合ってもらえないそうだ。

 

 日本人の心に深く沁みこんでいるよそ者を排除しようとする心の狭さはなんだろう。外国人の中には、日本の風土に魅せられ、日本人の親切さ暖かさに曳かれて日本に移住してきたかかわらず、目に見えない障壁に悩まされ、異邦人として暮らしている人がいるのも事実だ。最近このような目に見えない障壁は少しづつ薄まってきている。

 

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一歩先を行く

 朝、パークゴルフで一汗かいて家に帰った。今日は血液検査を受けるので、朝ご飯は食べないよという意味を含めて、妻に

「今日病院へ行って血液検査を受けるよ」

と言うと、妻は

「あっ、それは朝ご飯は食べない方がいいよ」と言う。

 汗を搔いたのでシャワーを浴びようと思っていると

「シャワーを浴びた方がいいよ」

 妻にとっては頭に浮かんだことがとっさに次々と言葉に出てくる。

 車を運転していて、赤信号が青に変わって前の車が動き始めると

「信号が青になったよ」

 車を交差点で左折しようとすると

「自転車が来たよ」

 そろそろ雪囲いをしくちゃぁと思っていると

「そろそろ雪囲いをしてくださいよ。もうすぐ雪が降ってきますよ」

 昨夜雪が降ったので玄関前の雪かきをしくちゃならないなぁと思っていると

「あなた、隣のご主人は雪かきをしてますよ」

 そこで私は

「う~ん。どうしようかなぁ」

 と考え込む。

 

 昔はCDなどと言うものはなくて音楽を聞くのには専らレコードであった。これには45回転のものと33回転のものがあった。妻は会議の席で発言するとき、言葉が早くて「百回転」と言われていたと本人が話してくれたことがある。

 NHKの幼児向け番組に「一歩先行く星人」なるものが出てきますが、妻の場合とは似て非なるものです。

 

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三つ子の魂百まで

 「三つ子の魂百まで」と言う言葉がある。

 この言葉はいつも心の底にあって、時々意識に浮かび上がってくる。

 太宰治を育てた「たけ」さんは太宰の妻美知子に太宰のことを「心の狭い人」だと言ったという。この言葉を読んだとき私は深く考え込んだ。そして太宰の生き方を見るとなるほどそうだろうなと納得させられる。

 実は私もそうなのである。大事にされて育ったためか、他人を思いやる心が少々足りない。自分中心の思考回路になりがちだ。分かっていてもそれがなかなか直らない。色々な場面において私は自分の心の狭さを思い知らされる。

 一歩前に進みだし他人に対して心を開くのをためらうことがある。それは自尊心のなせる業だと思う。

 私のこのような心のありようをこれではだめだと最近になって感じるようになったのはそれだけ少しは心にゆとりが生まれたためだろう。人生七十年以上過ごしてきてたった一つだけ、このことが少しは分かりかけてきたというのは実に情けない話である。だがそれでも時折自分の心の中にひそむ古い残滓に気づき愕然となることがある。

 孔子が「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)をこえ」無くなったというのとはえらい違いである。

 

 三歳より前の記憶はほとんど残らないそうだがたまに残ることもあるらしい。私にも今も鮮明に残る記憶がある。

 私がまだ這って歩くころのことである。私の祖父が明るい日の光の中でむしろの上に座って、孟宗竹を割っていた。楽しそうなのでそばへ這って行ったら、祖父が家の中に向かって何か言った。次の瞬間私の体はだれかに抱きかかえられて祖父から引き離されてしまった。明るい陽光の中でむしろに座っている祖父のシルエットがはっきり記憶の中に残っている。

 もう一つの記憶は、生まれて初めて立ち上がりよたよた歩いたことである。周りの風景が違って見えたし、周りから歓声が上がったのを覚えている。

 この二つの記憶は今も残っている。

 

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空瓶

 ある乳製品会社のセールスマンが訪ねてきて、

「当社の乳製品を飲んでみてください。後日また来ますのでその時に感想を聞かせてください」

 と言って数点の商品を置いていった。

 数日後にそのセールスマンがやってきて、その製品の感想を聞いたり、市販はしていませんのでよろしければ宅配をします、などといろいろ話し込んだ。去り際にその男は

「ヨーグルトが入っていた『くうビン』がありましたらもらっていきます」と言った。

 一瞬なんのことかわからなかったものの「あきビン」のことだなと見当をつけて、その「くうビン」を持って玄関の男に手渡した。確かに「空」は「くう」とも「あき」とも「そら」とも「から」とも読む。空港、空席などの連想から「くうビン」と言ったのだろうが、私はいたく感心してしまった。「座布団一枚!」の気持ちだった。

 後で妻にこの話をしてしばらく盛り上がった後で妻は、

「どうして間違いを正してあげなかったの。あちこちで同じ言葉を使っているわよ」

 と言ったが、私はあの時は、うまい言い方をするなと感心するばかりでそこまでは考え付かなかった。

 インターネットで調べたら年配の人には「からビン」と言う人があり、ほとんどの人は「あきビン」と言うそうだ。そのうち「くうビン」とか「そらビン」と言う言い方もはやってくるかもしれない。

 

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殺してやる

 この前テレビドラマを熱心に見ていたら、妻が割り込んできて、コマーシャルの合間を利用して自分の見たい番組の時間やチャンネルを探し始めた。コマーシャルはとっくに終わっているのにと思ってもまだ続けている。

 私はすっかり気分を害して、

「もうみない」と言いながら自分の部屋に引き上げた。

 妻はあわてて、チャンネルを私の見ていた番組に戻そうとするのだが慌てているものだからどのチャンネルなのか中々探し出せない。やっと探し当てて私に

「ほれ続きをやっているわよ」

と繰り返し私に呼びかける。私は自分の部屋に引きこもったきり出て行くことはなかった。

 

 毎朝私は7時前にはパークゴルフ場に出かけて行くのを日課にしている。その時間が迫っているのを知りながらパソコンにしがみついていたら妻が台所仕事をしながら

「出かける時間よ。早くしなさい」と二三回声をかけてきた。

それでもパソコンから離れずにしがみついて、いよいよ時間ぎりぎりになって慌ててパソコンから離れた。

 車庫に行って車を出そうとしたら運転免許証を忘れていることに気付いた。玄関に戻って妻を

「ちょっと(一寸)

と呼んだら妻は、目を吊り上げて、

「私『いっすん(一寸)』というものではない。何」

ととがった声で言いながら、刃先を上にした包丁を、しっかり小脇に抱えてどたどたと玄関に突進してきた。

「免許証を忘れた」

と言うと、物も言わずに私の部屋に引っ返して探して取ってきてくれた。免許証を手渡すときに、包丁の峰の部分で思いっきり頭を小突かれた。刃のほうでなくて本当に良かった。

 殺意は思わぬところから芽生えることがある。気を付けよう。

 

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押してだめなら

 雪掻きをしていたら物置のドアに体が倒れ掛かってドアがめり込み開かなくなってしまった。その冬はそのまま我慢して春が来た時にどうしたらいいかホームセンターに聞きに行った。

「物置は下から組み上げて上の方に行くので、解体するときには上の屋根から取り外してゆかないと、ドアには届かないでしょうね」と言われた。

「業者を頼むと最低でも一万以上はかかるでしょうね」ということであった。

 そこで何とか自分の手でと考えて取り掛かってみたものの、そもそも屋根の外し方がわからない。敷居を持ちあげてみたらどうかと考え、上の方の敷居をジャッキアップしようとした。ところが物置は金属製で、木製のものと違い遊びがない。敷居は持ちあがったものの、それと一緒に物置全体が持ち上がり、おまけに敷居がへこんだ。

 そこへ裏の家の主人が何をしているの聞きに来た。今までのいきさつを話しドアを取り外すのを諦めかけているのだと言うと、何を思ったのか、ドアを思いっきり手前に引いて無理やり取り外してしまった。ドアは金属製なので多少は曲がってしまったものの手で直して平にし、レールも直してドアをはめたら、元通り開け閉めできるようになった。

 

 私はいたく感心した。なるほど発想の転換と言うか、コロンブスの卵と言うか、押してだめなら引いてみなを地で行くような話であった。

 

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先客あり

 この前電子レンジでコーヒーを温めようとしたら、なかなか入ってゆかない。おかしいなと思ってのぞき込んだら、奥の方に既に二個のコーヒーカップが入っていた。

「ははぁ、妻の仕業だな」と思って、奥の方に入っていた二個を取り出して、自分のコーヒーカップを入れて温めた。

 一個だけなら他の仕事をしていて取り出すのを忘れるということはたまにあるだろう。しかし二個も入れたままになっているのはどういうことなんだろう。

 この前はなんだか台所の方から音が聞こえてくるなと思って台所に行ったら、水道の栓が開きっぱなしになっていた。多分この音は三十分近くは続いていた。後で妻に聞いたら

「二階に上がったらすっかり忘れてしまった」といった。逆に

「気が付いていたのならなんで早く水を止めてくれなかったのよ」と脅された。

 やかんで水を温めるのに、妻がどこかへ行ってしまって、お湯が吹きこぼれ、ガス台が水浸しになっていることがたまにある。

 

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ボケの始まり

 この前妻が歯医者に行くのに送ってくれと言ったので車で出かけた。途中で妻が

「あなたどこへ行くのか知ってるの」

と聞くので

「あぁ、知ってるよ。歯医者だろう」

と言ったら

「道が違うじゃないの」

 と言われて気が付いたら地下鉄駅へ行く道を走っていた。

 

 新聞を読みながら朝食を食べていた。何気なくおにぎりを口に運び食べようとしたが、巻いてある海苔がなかなか噛みきれない。おかしいなと思ったものの、目で新聞を読みながらなおかみ切ろうと頑張った。そのとき妻が

「何を食べているのかよく見なさい」

と言う。

 見ると、おにぎりに巻いてある海苔の上にさらにサランラップが巻いてあった。

 妻は私のやることに一部始終を見ていて、私が完全に認知症になったのではないかと心配したそうだ。どうやら大丈夫らしいと分かって妻はけたたましく笑い出した。私は非常に面白くなかった。

 

 市バスから降りるときには二つの動作を続けてしなくてはならない。乗車券を入れることと料金カードを入れることで、この二つの作業には順序が決められている。乗車券を入れてから料金カードを入れる。そこで順序を間違えないように声に出して乗車券を入れた。

「これを入れて・・・」

 すると親切にも運転手さんが唱和してくれた。

「これを入れて・・・」

「これを・・・」

 と言ったところで運転手さんが

「あ、それ向きが違う」

 よく見たら料金カードの向きが逆だった。

 

 私の運転する車はオートマ車である。左足は全く使わない。右足でブレーキとアクセルを交互に押すだけでいい。病院の駐車場から後方を確認しながら、バックで車を出そうとするとき何を思ったのか左足でブレーキを押しながら、同時に右足でアクセルを踏んでいた。

「おかしいないつものようにスムースに車が動かないぞ」

 と思いながらも、なんとか車をバックさせ無事発進することができた。車がめでたく前に向かって動き出してからはじめて、普段は使うことのない左足でブレーキをしっかり踏んでいることに気が付いた。

 この調子だと近い将来、高速道や一方通行の道を逆走したり、歩道と車道を間違えて歩道を突っ走ったりする日が来るだろう。考えるだけでそら恐ろしい。

 

***

殺してやる(その二)

 十年以上前から耳の聞こえが悪くなってきた。最近は補聴器も使っていた。妻からは早く耳鼻科に行きなさいといわれていたもののぐずぐず引き延ばしてきた。そのうち耳ダレが出始めたのでしぶしぶ通院することにした。始めは様々な種類の抗生剤取り換えて使ってみたものの完治しない。私の方から医者に治療を止めにしたらどうでしょうと申し出たが、医者にせっかくここまでやってきたのだからもう少し頑張ってみましょうといわれた。抗生剤を諦めてステロイド剤を服用するにしたら見る見るうちによくなってきた。聴力も正常値に近い値まで回復した。これなら十年前に医者にかかっていたらよかったのにと思った。

 治療するときに鼓膜を毎回切開された。これがなかなか痛い。一応麻酔薬を鼓膜に塗布されるのだがそれでも痛い。医者が看護婦に「メス」と言うのを聞くたびに身構えた。私の痛そうな顔を見て看護婦が

「手を握りましょうか」

と優しく聞いてきた。

 若くてかわいらしい看護婦だったので、内心是非そうしてもらいたい心境だったが黙って我慢した。

 

 幼い子もたくさんやってくる。どの子供も診察室に入って間もなく泣き叫ぶ。幼稚園児くらいになると言葉も自由に話せるようになるから、私には言っている中身はよく聞き取れないものの、子供は泣き叫びながら考え付くあらん限りの悪態をついている。普段はやさしい頼りがいのある母親が自分の頭を押さえつけて痛い目に合わせるものだからさぞかし理不尽に感じているのに違いない。

「何するんだよ。痛いじゃないか。放せ。あ、目が痛い。あ、首が痛い。放せ。放せ。なんでそんなに強く押さえつけるんだ。覚えていろよ。殺してやる。殺してやる」

 に類する言葉を必死に叫んでいるのだろう。今泣かなかったら泣くときはないとばかりに泣きわめく。診療室から出ても泣きじゃくりながら母親とは不倶戴天の敵(かたき)であるかのように距離を取って歩いていた。

 妻に

「痛くしない方法はないのかなぁ」

と聞いたら、

「耳の場合はどうしようもないらしい」

といっていた。

 

***

桃栗三年柿八年

 妻が台所仕事をしながら

「桃栗三年柿八年、梨がなんとかかんとか」

と独り言をいっていた。もしかしてとインターネットで調べたらありました、続きが。それが次のようなものです。編集したり、不適切な表現を変えたりした。

 

 桃栗三年柿八年、梅はすいすい十三年、柚子の大馬鹿十八年、梨の馬鹿目も十八年、林檎ニコニコ二十五年、銀杏の阿呆は三十年、女房の不作は六十年、亭主の不作は一生涯。

 

 ここにでてくる数字は大まかな目安で、まともに収穫できるようになるのにこれくらいの年数がかかる という意味だそうだ。亭主は一生かかっても実はならないそうで、私にはぴったり当てはまる。

 妻は次のような言葉も時々口にする。

「ありがとうなら、いもむしゃはたち、蝉は十五で嫁に行く」

 調べたら、これにもバリエーションがありました。

「ありがとうなら、いもむしゃはたち、みみず十九で嫁に行く(へびは三十で嫁に行く)

「ありがたいなら、いもむしゃくじら(みみずはいわし)。むかで汽車ならはえが鳥」

「男はつらいよ」の中での寅さんのセリフ。

「ありがとう(十)なら、めんたま二十、あしが六十ではいまわる」(ありは一匹に足が六本、十匹だと六十本)

 

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 忘却とは忘れ去ることなり

 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」

 ラジオドラマ「君の名は」の冒頭のナレーションで、放送の歴史に残る名文句。これが放送される時間になると銭湯の女湯が空っぽになったとか。

 私の年になると忘却は誓わなくても勝手にやってくる。

 時間は伸びたり縮んだりする。光速に近い非常に早い乗り物に乗って一年間、宇宙旅行を楽しんで地球に帰ってきたら、地球では千年も万年も過ぎていたということもありうる。邯鄲(かんたん)の夢の話や浦島太郎の物語は古代の宇宙人が書き残した実話なのである。おとぎばなしに過ぎないなどと侮ってはいけない。

 この前も空間のゆがみが波のように伝わっていく現象が観測されたと新聞紙上に発表された。

「ふぅ~ん。そうかいそうかい。ほんまかいな」

  半年前にも「ふんふん、なるほど、なるほど」と思ったはずなのに、今も同じように「ふんふん、なるほど、なるほど」と思っている。これを老人の特権と言わずして何と言う。

 しかし妻は昔のとっくに忘れてしまったこともよく覚えていて、ときどき嫌がらせのように持ち出してくる。私は内心ドキッとするのだが

「さぁ、忘れました。そんなことがありましたか」

と言うような顔をしてやり過ごすことにしている。

 

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カラス頭

 近所に住むカラスは日々進化している。生ごみ回収の日になると近くのゴミステーションにカラスが出動する。燃えないごみやプラスチック、雑紙(ざつがみ)ペットボトルなどの日には全く姿を見せない。ゴミステーションに生ごみの入った袋を持って近づくと首をかしげながらこちらの様子をうかがい、そばに近づくとひょいと手の届かないところまで離れる。ほんの少し離れたところで、相変わらずこちらの様子をうかがっている。ゴミ袋を入れてゴミステーションから離れるとまた戻ってきてごみあさりの続きを始める。

 数年前から、ごみ置き場を取り巻くように柵をめぐらせてその上にネットをかけるようにしてある。ところがカラスはそのネットをくちばしでくわえてずらし、隙間から餌をあさるようになった。そこで洗濯ばさみでネットを柵に固定した人がいた。しばらくは効果があったものの最近は洗濯バサミをくちばしで外した上にネットをずらして生ごみをあさっている。

 日々進化するカラスに対し私はと言うと日々退化し、時間と空間の感覚が鈍くなってゆく。ぼ~っと生きている。物事を学習しないやからに対して「あのカラス頭」などとけなすのはやめにしよう。

 妻は昔から人の癖をするのが実にうまい。カラスのまねなど朝飯前である。ついこの前も、カラスが人の動きを横目でうかがいながら、手の届かないところへひょいひょい逃げる様子を実にリアルに再現してくれたので、二人で大いに盛り上がった。

 

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なんにもない正月

   よりによって年も押し詰まった二十八日になってすこし喉ががらがらするなと思っていたら夕方になってますます調子が悪くなってきた。妻に喉を見てもらったら赤くなっている。時間も遅く、医者にもかかることができず、そのまま寝込んで、正真正銘の「寝正月」を過ごすことになった。

 妻も体調がよくなく年末恒例の買出しに行くこともできず、大掃除をしたり、お節料理を作ったり、正月を迎えるためのそれらしいことは何ひとつできなかった。

 

「かざりせず しめなわはらず おせちなし  なんもしなくても 正月がきた」

 (松立てず しめかざりせず もちくわず かかる家にも 春は来にけり(元政法師))

 生まれて初めて迎える何もない正月だったが、さっぱりしていてこれもいいかなと思っている。くせになりそうだ。

 今の気分は

「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休)

 

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究極の歩数計

 歩数計をまた購入した。

 歩数計のことは昔は万歩計と言っていた。しかしある会社が万歩計と言う名前はわが社のものだと言い張ったので他の会社は仕方なく歩数計と言う名前を使うようになったそうだ。

 今回購入した歩数計はたぶん五つ目くらいになる。今までのは一つを除いていつの間にか行方不明になってしまった。行方の分かっているその一つはズボンのポケットに入ったまま洗濯機の中で水と洗剤できれいに洗われて使い物にならなくなった。

 今回購入したものは究極の歩数計と言っていい。

 何しろ余分な表示が何もない。表示されるのは歩数と日時しかない。その表示も普段は消えていてボタンを押すと文字が現れてくる。できることが少ないから値段も安い。しかし毎日の歩数は一週間前の分までしっかり記憶していてくれる。

 普通の歩数計には消費カロリーとか歩行距離とかしっかり歩行など訳の分からないものがこれでもかとばかりたくさんついている。

  私に必要なのは歩数と日時だけだ。時間については私は普段、腕時計や携帯電話などを持ち歩かないから、バス停などで時間を確認するのに大変助かる。私はこの究極の歩数計がえらく気に入っている。

 この話には続きがある。

 昨日孫の小学校の卒業式に出かけるということで、外出用のズボンを取り出して履いていたら 、そのポケットの中からハンカチと一緒に行方の分からなくなっていた歩数計が出てきた。よく見たら今回買ったのとまったく同じものだった。ボタンを押したら時間や歩数が表示された。一年半近く経っていたのだが、じっとポケットの中で眠ったままだったので電池も消費されなかったのだろう。

 しかし目ざとく見つけた妻は

「二つもいらないでしょう」

と言いながらさっさと取り上げた。確か妻は一つ歩数計を持っていたはずなのにである。

 

***

忍び寄る老いよ

  ざつがみ(雑紙)をゴミ箱置き場に運び、年賀状をポストに入れ、そのついでに散歩をした。

 わずかばかり降った雪が解けて、夜の寒さでそれが凍ってしまったので歩きにくいことこの上もない。滑って転んだら骨折などでは済まないかもしれない。安全な場所を探しながらよたよた歩いていたら、そばをすたすたと追い越していく若者がいる。氷の上でずるっと滑ったので

「あ、滑った」

 と思ったら、片足でバランスを取って態勢を立て直し、何事もなかったかのようにまたすたすたと歩いて行った。

 私はといえば相変わらずよたよたと歩き続ける。

「年だけはとりたくないものだ」

と思うがこればかりは何ともしようもない。

 そこで替え歌を一つ。題して「忍び寄る老いよ」。元歌は「夜霧よ今夜もありがとう」

 

「忍び寄る老いを つつむ寒さよ、

   知っているのかこの切なさを

 晴れて日が射すその日まで

     ひたすら辛抱  老いよ 寒さよ

     わたしはいつもそっとつぶやく

     春ぅ~よ  早やぁ~く やって来い~」

 お粗末。

(元歌の歌詞)

「夜霧よ今夜も有り難う」

 しのびあう恋を つつむ夜霧よ 知っているのか ふたりの仲を

 晴れて会える その日まで    かくしておくれ 夜霧 夜霧

 僕らはいつも そっと言うのさ  夜霧よ 今夜も有り難う

 

 寒い冬もいつまでも続きません。とうとう春がやってきました。ここで気分を変えて正統派俳句を二つ三つ。

  雪囲い 解けて伸びする 庭木かな

  春の雪 一尺解けて 花覗く

  交差点 疾風の如く 一年生

  老妻の 「オッハー」の声 寒椿

  白菜の切り株芽吹く 窓の春

 

 おまけ。

 春になると庭仕事も始まります。そこでまた一句。

庭仕事 道路工事に さも似たり

     造っては壊す 造っては壊す

 

 妻は

「老妻の 「オッハー」の声 寒椿」

の句を見て「老妻」を「亡妻」に勝手に書き換えてしまった。直ちに却下。

 

 

***

男と女

 妻はよく男と女は永遠に分かり合えない存在だなどという。男と女には感性に差があって、男の感性の網は粗く、女の網は細かいのだという。

 以前、妻の喋りを聞いていて、

「女の人って、しゃべるように考えるんだ」

といったら、

「そうよ、じゃ男の人はどうなの」

と逆に聞き返されてハタと考えこんだ。

 男の場合、一般的に考えてからしゃべる傾向が強いと思う。女の場合言葉が先に出る。ただただしゃべることを楽しんでいる。

 年を取って妻は出かける場が少しづつ減ってきた。それに伴って私に話しかけたり、文句を言ったりすることが多くなってきた。聞いているふりをして、うんうんと適当にうなづいたり、「そだね」と相槌を打っていればいいものを、それが面倒になったりする。そうなると妻の雲行きがだんだんとおかしくなり、とうとう怒り出す。

 私はなかなか学習しない。しょっちゅう反省している。反省だけなら猿でもできるというのだが、反省だけはしっかりしている。

 

***

舌の運動

 舌を動かすことは脳の活性化にいいそうだ。パタカラ体操という舌専用の体操がある。我が家でも実行している。

 世界にはいろいろな風習があって、舌を長く出してあいさつをするという人々もいるそうだ。私たち夫婦も時々これを使っているが、残念ながら人前では使えない。