正信偈 現代語訳
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はじめに
昔から何気なく聞いてきたお経に正信偈があります。このお経にはどういう意味のことが書かれているのだろうかと長い間気にかかっていました。今年の夏たまたま、このお経を自分なりに自分自身のためにわかりやすく訳してみたいと急に思い立ちました。ただもとの文をそのまま訳したのでは、意味が取れないところが出てくるので、適宜意味を補いながら訳しました。そこで出来上がったのがこの「正信偈 現代語訳」です。
さまざまな書籍を参考にしました。終わりにその書名を記しておきます。
正信偈現代語訳は、私はこのように理解しています、このような意味で受け取りましたということに過ぎません。
平成22年11月 天邪鬼
この冬いろいろな箇所に手を入れました。
令和5年2月 天邪鬼
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親鸞聖人(1173-1262)はどこまでもどこまでも懺悔を繰り返され、その結果、どのように生きても悪人であることを免れない凡夫であり、しかも末法の世に生きている身であり、その私が救われるのは『南無阿弥陀仏』の念仏以外にはないという絶対他力の道を明らかにされた。
『南無阿弥陀仏』の名号は『私がお前を救ってやるぞ』という阿弥陀如来の呼びかけであり、『阿弥陀様有り難うございます』という私たちの感謝の気持ちであると考えられた。
親鸞聖人は「教行信証」を著され、その中で、阿弥陀仏の本願力によって、私たちが真実の世界に目覚め、真実の世界に生きる真実の私になることができることを明らかにされた。
「正信偈」はこの「教行信証」の「行」の巻きの最後につけられている百二十句の偈(詩、歌)です。正信偈とは「正信念仏偈」の略で「念仏を正しく信じる人を讃える歌」の意味。
親鸞聖人は最初に、「大無量寿経」に基づいて阿弥陀仏と釈尊の徳をたたえ、後半では、念仏を私たちに説いた七人の高僧について述べられ、また念仏のいわれも説かれている。
平成二十二年十一月 天邪鬼
正信偈 現代語訳
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正信偈 現代語訳 総讃(そうさん) 依経段(えきょうだん) 弥陀章 釈迦章 結誡(けっかい) 依釈段(えしゃくだん) 総讃 竜樹章 天親章 曇鸞章 道綽章 善導章 源信章 源空章 結讃
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正信偈 現代語訳
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はかりしれない命と慈悲を持っておられ、無量寿如来と呼ばれる阿弥陀如来をたのみとし心から敬い信じ、すべておまかせします。
はかりしれない光と知恵を持っておられ、不可思議光如来と呼ばれる阿弥陀如来をたのみとし心から敬い信じ、すべておまかせします。
今よりはかり知れないほど遠い昔、阿弥陀如来は、ある国の国王でしたが、世自在王仏の説法を聞き深く喜ばれ、この上ない悟りを求める心を起こされた。王は国も王位も捨て、出家して、修行され、法蔵と名乗られた。阿弥陀如来が法蔵という名の菩薩であらせられたころのことです。
法蔵菩薩は世自在王仏の助けを得て、二百十億ものもろもろの仏の浄土の成り立ちや、それぞれの浄土の様子、それらの浄土に生きる人々の善し悪しをはっきりと見極められた。そして、人々の迷いと苦しみのもとを取り除くために、他の仏の浄土とは違う、救いをもっとも必要とする煩悩にまみれた悪人さえも救うことのできる極楽浄土を建立しようという、この上なくすばらしい願いを打ち立てられた。この願いが実現されないようなら永遠に悟りは開かないし、仏にはなるまいという、比べようもない大きくて弘い誓いを立てられた。
法蔵菩薩は五劫というとてつもない長い時間かけて思いはかり、善を納め取り、悪を選び捨て、四十八の誓願を選び取られた。その請願を一つ一つ、世自在王仏に述べられ、この請願が実現されないようなら決して悟りは開かないと誓われた。法蔵菩薩は、自分が仏になるために、四十八の誓願の要旨を十一の詩にまとめ、世自在王仏の前で重ねて誓われた。そのうちの第三番目の誓いは「私が名声を得て、私の名号『南無阿弥陀仏』がいつでもどこでも聞かれないようなことがあれば、私は仏になりません」という誓いです。
法蔵菩薩の本願は成就し、阿弥陀如来になられました。阿弥陀如来の功徳あふれる慈悲と智慧の光は十二種の光となって、あまねくこの世の闇を照らしています。
その光とは、どのような時であっても照らし出し救ってくださる光、どのようなところであっても照らし出し救ってくださる光、何ものにもさえぎられることがなく、罪業にまみれた者にもしっかり届いて救ってくださる光、次の世で受ける苦しみのもとを滅してくださる光、この世で受けている苦しみを焼き尽くす光、私たちの心を清浄にする光、私たちの心を喜びにあふれるようにする光、私たちが自分の無知に気づくようにする光、私たちをいつでもどこでも照らし続ける光、私たちにはとうてい量り知りことのできない光、私たちにはとうてい褒めつくすことのできない光、日月の光を超えてこの世のすみずみまで届かないところのない光、の全部で十二種の光です。これらの光は塵のように散らばってる私達の世界を照らし、一切の生きているものは全てその光に照らされその恩恵を蒙っています。
法蔵菩薩は四十八の請願を成就され阿弥陀如来になられました。阿弥陀如来から「信心」をいただいて、心から「南無阿弥陀仏」の名号を称えることは極楽浄土に往生する正しい行いです。それは、阿弥陀如来が第十七願(諸仏称名の願)を成就されたので間違いのないことです。
また阿弥陀如来は第十八願(至心信楽の願)と第十一願(必至滅度の願)を成就されたので、それによりわずか十回でも「南無阿弥陀仏」を称えるものはこの世で菩薩の最高位である等覚の位につき次の世では仏になることは決まっています。
釈尊やもろもろの仏がこの世にお出ましになってその教えを説かれたそのわけ(出世本懐)は、真実信心を得て仏を称えるものは必ず救っていこうという阿弥陀如来の大きくて弘い本願を私たちに教えようとされたからです。五濁の悪がはびこる濁りきったこの世の中で群がり生きている私たちは、ありのままの真実を説かれた阿弥陀如来の本願を信じるよりほかはありません。
私たちの心に阿弥陀如来の本願が届き、信心が生じると、喜びの心が身体にあふれ念仏に生きる身となります。その後は、この世でいくら煩悩に悩まされようとも、煩悩のあるままの姿で必ず浄土に往生し仏になることができます。
だれも自力で極楽浄土に往生することはできませんが、凡夫であろうと、聖人であろうと、五逆を行うような悪人であろうと、仏法をそしるような人であろうと、自力を頼みとする心を改め阿弥陀如来の本願を信じるときには、だれもみな平等に極楽浄土という涅槃の大海に入ることができます。それはさまざまな川から流れ下った水がひとたび海に流れ込むと一つの海水になるのと同じです。
阿弥陀如来の本願を信じるものは、いつでもどこでも仏の摂取不捨の光りに照らされ護られています。ですから、私たちの無明の暗闇はなくなっているはずなのですが、私たちの好きなものを貪り愛し、嫌いなものを怒り憎む心が阿弥陀如来の振り向けてくださった真実の信心を覆い隠しています。例えば雲霧が日光を覆い隠しているようなものです。しかし信心をいただいていてそれを疑わないものには雲霧の下でも心は明るく仏の本願を疑うような闇はありません。
阿弥陀如来の本願を信じる心が得られたときには、私たちはこの上ない喜びに満たされ、そして、仏の智慧の働きにより、すなわち、念仏の働きにより、地獄、餓鬼、畜生、人、天の五つの悪い世界を一気に飛び越えて、凡夫でありながら、あの世では浄土に往生し仏になることができるのです。
一切の凡夫が、善人であろうと、悪人であろう、阿弥陀如来のすべての人を救いたいという、いつでも、どこでも働き続けているこの弘大な本願を納得いくまで聞いて信じるなら、釈尊はその人を讃えて、勝れた智慧を持つ名号の理解者だとおっしゃっています。私たち凡夫は煩悩に満ち溢れた泥沼のような世の中に暮らしていますが、それにもかかわらずこの仏の本願を信じるものには、釈尊はその人を讃えて、泥沼のような世の中に咲いた白蓮華蓮の花のようだとおっしゃっています。
阿弥陀如来は、悩み苦しんでいる一切の衆生をもれなく救いたいという本願により、衆生を救うために、「南無阿弥陀仏」という名号を私たちに等しく与えられた。ところが、私たちは、道理にそむいたよこしまな思いから離れられず、思い上がって、阿弥陀如来の本願よりも、自分の考えのほうを信用し大切にしています。そのため、自分がこれまで輪廻してきた六道のほうが恋しく、いまだ生まれたことのない西方浄土は恋しいなどと思いません。
阿弥陀如来の本願によって、念仏がこの私に差し向けられていることを疑わず素直に信じて喜び、その念仏をしっかりといただき、さらにそれをいただき続けることは非常に難しいことであり、これより難しいことはありません。
インドの竜樹菩薩と天親菩薩、中国の高僧、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の高僧、源信僧都、源空上人の七人の高僧は大聖釈尊がこの世にお出ましになったその本当の理由は、「阿弥陀如来の本願を説かれること」にあったということを明らかにされた。
七人の高僧は阿弥陀如来の本願が私たち一人一人に、それぞれの能力に応じて、差し向けられていることを明らかにされた。
釈尊が楞袈山(りょうがせん)で多くの人々に教えを説いておられたときに、はるか後の世に南インドに、竜樹という名の菩薩が生まれるだろう。その菩薩は、ものにこだわり執着してものが実在するとかあるいは実在しないとかなどと考える誤った考え方を打ち砕くだろうと述べられた。
釈尊はまた、竜樹菩薩は阿弥陀如来の本願というこのうえなく勝れた教えを広めるであろう。そして、この世で悟りを得て、菩薩の最高の位である歓喜地(かんぎじ)の位につき、あの世では、安楽国、すなわち阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ、仏になるであろうという予告をされた。
竜樹菩薩は仏道修行には難行道と易行道とがあり、難行道は自分の力を頼りにして、険しい陸路を進もうとするようなもので、自力で修行を重ねる聖道門(しょうどうもん)であり、易行道は他力によるもので、阿弥陀如来の本願という船に乗せてもらって、楽しく水路を行き浄土往生ができる浄土門のようなものであることを明らかにされた。
阿弥陀如来の本願を心に憶い信じるものは、信心をえたそのときに、自ずから直ちに本願力の働きにより、この世にいながら、あの世では仏になることが決定している不退転の位に入ります。その後は、私たちは、ただただ「南無阿弥陀仏」という名号を称えて、私たち凡夫を助けたいと願っておられる阿弥陀如来の大悲に感謝し、その大きなご恩に報いる生活を送るだけですと述べられた。
天親菩薩は、「仏説無量寿経」というお経に出会われて、「浄土論」を著され、その中で、「私は心を一つにしてひたすら、尽十方無碍光(じんじぽうむげこう)如来すなわち阿弥陀如来に帰依し、阿弥陀如来の極楽浄土である安楽国に生まれたいと願っております」と述べられている。
天親菩薩は、「仏説無量寿経」により、「南無阿弥陀仏」の名号こそ真の徳をそなえたものであるということを顕かにされた。「南無阿弥陀仏」の名号を称えるものは、たとえわたしたちのような凡夫であろうと、わたしたちの住んでいる穢土を一気に飛び越え浄土に往生できるのであり、このことが阿弥陀如来の大誓願すなわち第十八願の本願力であることを顕かにされた。
天親菩薩は、わたしたちを救うためにすべての人に差し向けられている阿弥陀如来の本願の中でも第十八願を一心に信じて疑わないことこそまことの信心であることを顕かにされた。わしたちには回向する善根が全く備わっていないので、自力では極楽往生できませんが、そのような私たちが救われる唯一つの道は、阿弥陀如来の本願によって私達に振り向けられている「南無阿弥陀仏」という名号を頂くことだけなのです。
あらゆる衆生を救いたいという阿弥陀如来の本願により回向された「南無阿弥陀仏」の名号は功徳にあふれるものです。この名号を心から信じるなら、必ずや、この世にありながら、正定聚不退転の位につき、浄土で阿弥陀如来の説法を聴聞している菩薩たちの仲間に入ることができます。
阿弥陀如来の極楽浄土は、仏たちの浄土の中でも最も優れた浄土であり、この穢土でさまざまな煩悩に悩み苦しむ凡夫のために用意された浄土です。そこに入ることができれば、真実そのものに目覚め、直ちに仏になり阿弥陀如来の悟りと同じ悟りを得ることができます。
浄土に往生した人は、浄土にとどまるだけではなく、煩悩や老病死に苦しむ人々の穢土に自由に出入りし、そこで苦悩する人々に、それぞれに応じた働きかけをするようになります。
曇鸞大師は北魏に住んでおられた。その名声は、南方の梁の国にも知られ、梁の皇帝である武帝は大師を菩薩として敬い、常に大師のおられる北魏のほうへ向かって、礼拝しておられた。
菩提流支は大師に「観無量寿経」を示し、阿弥陀如来の教えを授けられた。大師は、この教えに触れ、仙術を学んで、少しばかりの不老長寿を得たところで、益のないことを知り、阿弥陀如来を念じ、念仏によって浄土に往生する信心を得られた。そして、今まで熱心に学んでいた長生不老の仙人になるためのお経を焼き捨ててしまわれた。
曇鸞大師は、天親菩薩の書かれた「浄土論」を注釈して、「浄土論注」をお書きになり、その中で極楽浄土が建立される原因となったのも、その結果として浄土が建立されたのも、阿弥陀如来の本願力によるものだということを明らかにされた。
大師は「往相回向」も「還相回向」も阿弥陀如来の本願力により私たちに差し向けられたものであり、わたしたちに阿弥陀如来の本願力を信じる心が生じれば、間違いなく、現世において正定聚不退転の位につき、来世では浄土に往生して仏になることができると説かれた。
大師は、たとえどのように惑い迷っている凡夫であろうとも、その心の中に、阿弥陀如来の本願力により信心が起これば、迷いのままの状態で悟りを得、迷いから開放されることを明らかにされた。
大師は、私たちが阿弥陀如来の浄土である「無量光明土」(極楽浄土)に往生し仏になると、必ず、私たちは迷いの世界に立ち戻り、あらゆる人々を教え導くことになると説かれた。
道綽禅師は、今は末法の世の中であり、自力で修行しこの世で仏になろうとする聖道門の教えでは悟りを得ることは難しいことを明らかにされた。末法の世で凡夫が救われるのは、阿弥陀如来から差し向けられている「南無阿弥陀仏」という念仏により浄土に往生し、あの世で仏になるという浄土門の他力の教えによるしかないことを明らかにされた。
禅師は、自分の力を信じさまざまな善根功徳(ぜんごんくどく)の修行に勤め励む「聖道門」は末法の時代にそぐわないと退けられた。「南無阿弥陀仏」という名号こそ、阿弥陀如来の本願力により、私たちに回向されている名号であり、悟りを開くための功徳がすべて完全に備わった円満の徳号であるので、その名号をただただ称えることを、禅師は人々に勧められた。
道綽禅師は、曇鸞大師の述べられた三つの正しくない信心のすがた(三不信:率直でなく、自力が混じっていてもっぱらでなく、長く続かない信心)と三つの正しい信心のすがた(三信:率直で、もっぱらで、長く続く信心)とを分かりやすく丁寧に教えてくださった。像法、末法、法滅のどの時代に生きていようと自力による修行は何の役にも立たちません。阿弥陀如来はそれを哀れんで、如来の本願を信じる者には、像法、末法、法滅のどの時代に生きるものにも同じように、「南無阿弥陀仏」の名号を授けられたと説かれた。
道綽禅師はたとえ、一生の間、さまざまな悪を行うようなものでも、阿弥陀如来の広大な本願に出遭いそれを信じることがあれば、如来の浄土(安養界)に往生し、悟りを開いて仏になることができることを教えられた。
善導大師は当時の中国では「観無量寿経」に関する解釈について多くの誤りがあったのを正し、釈尊が本当におっしゃりたいことを明らかにされた。すなわち、阿弥陀如来は、瞑想し修行して自力で浄土を求める人、世間的な善行を積んで浄土を求める人、あるいは十悪や五逆の罪を犯す悪人、すべての人を哀れんで、「南無阿弥陀仏」の名号を直接の原因(因)とし、自ら放たれる智慧の光を間接の原因(縁)として、浄土往生という結果(仏果、仏の悟りをひらくこと)を、すべての人に施されていることを明らかにされた。
善導大師はただ名号を称えることを勧めて他の修行は必要ないことを説かれた。これは善導大師が始めて述べられたことです。
善導大師は、名号のいわれを信じて、私達の目の前に広がっている阿弥陀如来の智慧の大海に入ると、如来の心が私のものになる。その時如来から金剛石のような固い真実の信心をいただき、おのずから喜びの心が沸き起こることを彰かにされた。
善導大師は、真実信心をいただくと、韋提希(いだいけ)夫人のように、仏の智慧を悟る心(悟忍・ごにん)・信心の定まった心(信忍・しんにん)・必ず往生することを喜ぶ心(喜忍・きにん)の三つの心を得て、この世で正定聚不退転の位につき、あの世では悟りを得て仏になり、極楽浄土に生まれて、いつまでも変わることなく安らかに楽しく過ごすことになると説かれた。
源信僧都は釈尊の生涯の教説をすべて調べて、釈尊の教えは、ひとえに末法の世に住むすべての衆生が救われる道は阿弥陀如来の本願をひたすら信じるほかないと考えられた。自らはもともと天台の教えを学ぶ身でありながら、阿弥陀如来の教えに帰依し、あらゆる人々に念仏を勧められた。
源信僧都は、阿弥陀如来の他力回向の信心をいただいて、もっぱら念仏行だけを修める専修の人と、念仏の外にもさまざまな行を雑(まじ)えて修める雑修の人とを区別し、信心の浅い深いを判断された。また阿弥陀如来の浄土を真実報土と方便化土に分け、専修念仏の人は真実報土に生まれ、雑修念仏の人は浄土のほとりにある方便化土に生まれることを明らかにされた。念仏以外の自力の行が混じる雑行をいましめ、専修念仏だけの正行を勧められた。
源信僧都は、悪事のみ行い善根の全くない極重の悪人は、ただ念仏を称えて浄土に生まれようと願うしかない。私もまた阿弥陀如来の摂取不捨の光りの中に照らされ、おさめとられておりながら、沸き起こる煩悩のために、まなこが覆われて、仏を見たてまつることができないでいる。それにもかかわらず、仏は大悲の心をもって、あくことなくいつでもどこでも常に私を照らし続けてくださっていると述べられている。(摂取不捨 大悲無倦)
浄土真宗の祖師である源空上人(法然上人)は、仏教の教えを究めつくし、もろもろの煩悩にまみれているあらゆる善悪の凡夫を哀れみ救うために、浄土真宗の教行信証の教えを世界の片隅にある日本で興された。そして阿弥陀如来が選びとられた本願である称名念仏を濁りに満ちた悪世に広められた。
源空上人は次のように述べられた。われわれ凡夫は迷いの世界で、生まれては死に、死んでは生まれることを限りなく繰り返しながらも、そこを離れることができずに立ち戻り住家(すみか)にしている。これはわれわれ凡夫が阿弥陀如来の第十八願を疑うからである。第十八願を信じる者はただちに煩悩の騒がしい世界を離れ、穏やかで静かな涅槃の都に入ることができる。
これまで述べてきた竜樹、天親の二人の菩薩、および曇鸞、道綽、善導、源信、源空の五人の祖師たちは、無量寿経で説かれている阿弥陀如来の本願の心を明らかにして、汚れ切ったこの世で苦しみ迷う無数の衆生を救われました。私たちは、出家・在家を問わずいつの世でも、ともに心を一つにして、この七人の高僧たちの教えを信じ、その教えに従おうではありませんか。
*第十七番目の誓願:「諸仏称名の願」「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏たちが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりは開きません」
*第十八番目の誓願:「至心信楽の願」「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりは開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」
*第十一番目の誓願:「必至滅度の願」「わたしが仏になるとき、私の国の天人や人々が正定衆(しょうじょうじゅ)に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりは開きません」
(第十一番目の請願、第十七番目の請願、第十八番目の請願の訳は「浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)」(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社)より引用)
*正定衆:この世で正しいさとりが開けて来世には浄土に生まれて仏になることが決まっている人々。
参考にさせていただいた主な書籍(ありがとうございました)
「正信偈に聞く」(桐渓順忍、教育新潮社)
「正信偈の教え」(吉田和弘、東本願寺出版部)
「入門教行信証 正信偈をよむ」(早島鏡正、NHK出版)
「正信偈新講」(金子大榮、あそか書林)
「浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)」(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社)
「真宗の教義と安心」(本願寺出版社)
「親鸞の告白」(梅原猛、小学館)
その他いろいろありますが省略。インターネットなどでも詳細な情報を得ることができる。
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*総讃(そうさん)
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*阿弥陀如来を敬い、阿弥陀如来をたのみとし、阿弥陀如来にすべておまかせしますという親鸞聖人のお心が述べられている。帰敬偈(ききょうげ)ともいう。
帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)
南無不可思議光(なもふかしぎこう)
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無いたします」
『はかりしれない命と慈悲を持っておられ、無量寿如来と呼ばれる阿弥陀如来をたのみとし心から敬い信じ、すべておまかせします。
はかりしれない光と知恵を持っておられ、不可思議光如来と呼ばれる阿弥陀如来をたのみとし心から敬い信じ、すべておまかせします』
*帰命・南無:「南無」はインドの言葉「ナマス」をそのまま漢字に置き換えたもの。「帰命」は「ナマス」を中国語に訳したもの。どちらも「心から仏を敬い、信じ、順い、おまかせします」という意。
*如来:真如(真理)の世界へかくのごとく往き、凡夫を救うために、真如の世界からかくのごとく現れ来たった人の意。
*阿弥陀:「アミターバ」(無限の光をもつものの意)あるいは「アミターユ」(無限の寿命をもつものの意)を漢字に置き換えたもの。
*無量寿如来:慈悲と限りない命を持ちいつでもお救いくださる如来。阿弥陀如来。
*不可思議光如来:智慧と限りない光を持ちどこにいてもお救いくださる如来。阿弥陀如来。
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*依経段(えきょうだん)
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*この段は依経分(えきょうぶん)ともいう。「仏説無量寿経」(「大無量寿経」あるいは略して「大教」ともいう)の中心となる教えを要約し、阿弥陀仏と釈尊の徳をたたえる。
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*弥陀章
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* ここでは阿弥陀如来の本願が述べられる。
法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
在世自在王仏所(ざいせじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんまく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発希有大弘誓(ちょうはつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)
「阿弥陀如来が法蔵と呼ばれる菩薩であらせられた時のこと、世自在王仏のもとにおいでになって、もろもろの仏の浄土の成り立ちや国土や人々の善し悪しを見極められ、この上なくすばらしい願いを立てられ、この上なく大きく弘い誓いを発せられた。 五劫という永い時間をかけて思いめぐらされ四十八の誓願を選び取られ、南無阿弥陀仏の名号があらゆるところで聞かれるようになるようにしますと重ねて誓われた」
『今よりはかり知れないほど遠い昔、阿弥陀如来は、ある国の国王でしたが、世自在王仏の説法を聞き深く喜ばれ、この上ない悟りを求める心を起こされた。王は国も王位も捨て、出家して、修行され、法蔵と名乗られた。阿弥陀如来が法蔵という名の菩薩であらせられたころのことです。
法蔵菩薩は世自在王仏の助けを得て、二百十億ものもろもろの仏の浄土の成り立ちや、それぞれの浄土の様子、それらの浄土に生きる人々の善し悪しをはっきりと見極められた。そして、人々の迷いと苦しみのもとを取り除くために、他の仏の浄土とは違う、救いをもっとも必要とする煩悩にまみれた悪人さえも救うことのできる極楽浄土を建立しようという、この上なくすばらしい願いを打ち立てられた。この願いが実現されないようなら永遠に悟りは開かないし、仏にはなるまいという、比べようもない大きくて弘い誓いを立てられた。
法蔵菩薩は五劫というとてつもない長い時間かけて思いはかり、善を納め取り、悪を選び捨て、四十八の誓願を選び取られた。その請願を一つ一つ、世自在王仏に述べられ、この請願が実現されないようなら決して悟りは開かないと誓われた。
法蔵菩薩は、自分が仏になるために、四十八の誓願の要旨を十一の偈にまとめ、世自在王仏の前で重ねて誓われた。そのうちの第三番目の誓いは「私が名声を得て、私の名号『南無阿弥陀仏』がいつでもどこでも聞かれないようなことがあれば、私は仏になりません」という誓いです』
*法蔵(ほうぞう):全ての真理を含むものの意。
*世自在王仏(せじざいおうぶつ):世の中で一番自由自在に生きる仏。
*因位(いんに):仏になるために修行している菩薩の段階。因位に対して、果位(かい)とは菩薩の行が完成し、その結果仏になった段階。
*劫(こう):劫は時間の長さを表す。縦横高さが、それぞれ四十里(約20km)の岩に、羽衣を来た天女が三年に一度通りかかり、その羽衣の袖が岩にさっと触れる。そのとき、その岩がわずかに磨り減る。このようなことが繰り返されてその岩の塊が完全になくなってしまうまでの時間が一劫。五回繰り返されると五劫。
*重誓偈(じゅうせいげ):法蔵菩薩は世自在王仏の前で四十八の本願の要旨を十一の偈にまとめ、重ねて誓われたので重誓偈という。そのうちの最初の三つの誓いを特に三誓偈という。三誓偈とは次のような誓い。
第一の誓い「私が発した願いがすべて成就しないのであれば、私は仏にならない」
第二の誓い「悩み苦しむあらゆる人々を救えないのであれば、私は仏にならない」
第三の誓い「私が仏の悟りを得ても、私の名が世界のすみずみまで届かないのであれば、私は仏にならない」
*名声(みょうしょう):誉れ。評判がいいこと。ここでは「南無阿弥陀仏」という名号が素晴らしくいい評判であること。
普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんじむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがつこうしょうじんせつ)
一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)
「阿弥陀如来の光はあまねく放たれています。それはあらゆる時に限りなく照らす光、あらゆるところを照らす光、遮られることのない光、比べることの出来ない光、さまざまな迷いを焼き尽くす光、心を清らかにする光、心を喜びで満たす光、無知であることに気づかせる光、途切れることなく照らし続ける光、私達が量り知ることの出来ない光、説明しきれない光、日月の光を超えた光の十二の光です。これらの光は塵のように散らばってる私達の世界を照らし、あらゆる命がその光の恵みにあずかっています」
『法蔵菩薩の本願は成就し、阿弥陀如来になられました。阿弥陀如来の功徳あふれる慈悲と智慧の光は十二種の光となって、あまねくこの世の闇を照らしています。
その光とは、どのような時であっても照らし出し救ってくださる光、どのようなところであっても照らし出し救ってくださる光、何ものにもさえぎられることがなく、罪業にまみれた者にもしっかり届いて救ってくださる光、次の世で受ける苦しみのもとを滅してくださる光、この世で受けている苦しみを焼き尽くす光、私たちの心を清浄にする光、私たちの心を喜びにあふれるようにする光、私たちが自分の無知に気づくようにする光、私たちをいつでもどこでも照らし続ける光、私たちにはとうてい量り知りことのできない光、私たちにはとうてい褒めつくすことのできない光、日月の光を超えてこの世のすみずみまで届かないところのない光、の全部で十二種の光です。これらの光は塵のように散らばってる私達の世界を照らし、一切の生きているものは全てその光に照らされその恩恵を蒙っています』
*無量:無量光・いつの時代の衆生をも救う光・阿弥陀如来の光りは時間的に完全であることを表す。
*無辺光:どのような場所にいる衆生をも救う光。阿弥陀如来の光りが空間的に完全であることを表す。
*無碍:無碍光・あらゆる物質的・精神的障碍に妨げられない光。どのような場所にも届く光。
*無対:無対光。他に比較することのできない働きを持つ光。次の世で受けなければならない苦しみの因を滅してくれる光。
*光炎王:炎王光。盛んに燃え盛る光。前の世で因を作り、この世で受けている苦しみを和らげてくれる光。
*清浄・歓喜・智慧光:人間の貪欲(とんよく・ものをむさぼる欲)・瞋恚(しんに・怒り)・愚痴(ぐち・ものの道理がわからないこと)の三つの恐ろしい悪をなくしてくれる光)
*不断:不断光。いつでも絶えず守ってくれる光。
*難思:難思光。思いはかることのできない光。罪悪を持つ私たちをそのままの姿で浄土に往生させくれる光。
*無称光:褒めつくせない光。凡夫が浄土に往生すると同時に仏にしてくれる光。
*超日月光:日月の光よりはるかに勝れた光。
*塵刹:塵のようにたくさんある国土。刹は国土の意。
*群生:群れをなして生きる人間、生き物。
本願名号正定業(ほんがんみょうごうしょうじょうごう)
至心信楽願為因(ししんしんぎょうがんにいん)
成等覚証大涅槃(じょうとうがくしょうだいねはん)
必死滅度願成就(ひっしめつどがんじょうじゅ)
「本願の名号は正定の業であり、至心信楽の願によるものです。等覚を得て涅槃に往生するのは、必死滅度の願が成就しているからです」
『法蔵菩薩は四十八の請願を成就され阿弥陀如来になられました。阿弥陀如来から「信心」をいただいて、心から「南無阿弥陀仏」の名号を称えることは極楽浄土に往生する正しい行いです。それは、阿弥陀如来が第十七願(諸仏称名の願)を成就されたので間違いのないことです。
また阿弥陀如来は第十八願(至心信楽の願)と第十一願(必至滅度の願)を成就されたので、それによりわずか十回でも「南無阿弥陀仏」を称えるものはこの世で菩薩の最高位である等覚の位につき次の世では仏になることは決まっています』
*本願:阿弥陀仏の成就された四十八の願。親鸞聖人はその中の第十八願こそ本願であると考えられた。
*名号:「南無阿弥陀仏」のこと
*正定業:浄土に間違いなく往生できる正しい行い。
浄土に往生するための行には正行と雑行(ぞうぎょう)がある。正行は具体的には読誦、観察、礼拝、口称、讃嘆供養。なかでも口称は阿弥陀如来の本願によるものであり、これにより浄土往生がきまるので正定業とよぶ。そのほかの読誦、観察、礼拝、讃嘆供養は助業と言う。雑行は正行以外のすべての行。
親鸞聖人にとって正定業とは『南無阿弥陀仏」を称える口称念仏のみであった。口称念仏はすべての善をそのうちに含み、全ての徳をその中に備えていて、最高の真実であり、最高の利益で、その保障は第十七番目の請願の中に含まれていると考えられた。
*諸仏称名の願:第十七番目の誓願。
「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏たちが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりは開きません」(浄土真宗聖典・浄土三部経現代語版)
*至心信楽(ししんしんぎょう)の願:第十八番目の誓願。
「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりは開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」(浄土真宗聖典・浄土三部経現代語版)
*五逆:父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢(聖者)を殺すこと、仏の身体を傷つけること、サンガ(教団)の調和を破って分裂させること。
「五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」というのは往生させないというのではなく、特にこのような重い罪は犯してはならないという戒めであると解釈されている。
*必至滅度の願:第十一番目の誓願。滅度とは涅槃のこと。
「わたしが仏になるとき、私の国の天人や人々が正定衆(しょうじょうじゅ)に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりは開きません」(浄土真宗聖典・浄土三部経現代語版)
*正定衆:現生正定衆ともいう。正しいさとりが開けて来世には浄土に生まれて仏になることが決まっている人々。親鸞聖人は私たちが真実信心を得たそのときに、この世において、来世には仏になることが決まった位からは退かないという現生正定衆(げんしょうしょうじょうじゅ)の位につく(このことを現生不退という)と考えられた。
*等覚(とうがく):菩薩の最高位。次の世には仏になることが決まっている位。(等正覚のこと)あらゆる煩悩を取り払い、あらゆる苦しみから開放され、一切をありのまま平等に正しく観ることのできる境地。
*本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
正信偈のこの四句は法蔵菩薩の四十八の本願の中心となる部分であり、真宗の教義の基本を示し、親鸞聖人の主著「教行信証」の要約といわれている。
*
*釈迦章
*
如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅっせ)
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)
五濁悪時群生海(ごじょくあくじぐんじょうかい)
応信如来如実言(おうしんにょらいにょじつごん)
能発一念喜愛心(のうはついちねんきあいしん)
不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)
凡聖逆謗斉回入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう)
如衆水入海一味(にょしゅうすいにゅうかいいちみ)
「釈尊や諸仏がこの世に出られたわけは、ただ阿弥陀如来の本願を説くためです。五濁の悪がはびこる今に生きるものは全て、まさに如来の真実の言葉を信じるほかにはありません。本願を信じ喜びの心が起これば、この世で煩悩を絶たなくても、そのままの姿で、あの世で涅槃の世界に入ることができます。凡夫も聖人も、五逆を行うような悪人も仏法をそしる人も心を入れ替えれば等しく涅槃の世界に入ることができるのは、どのような水であろうと海に入れば同じ海水になるようなものです」
『釈尊やもろもろの仏がこの世にお出ましになってその教えを説かれたそのわけ(出世本懐)は、真実信心を得て仏を称えるものは必ず救っていこうという阿弥陀如来の大きくて弘い本願を私たちに教えようとされたからです。五濁の悪がはびこる濁りきったこの世の中で群がり生きている私たちは、ありのままの真実を説かれた阿弥陀如来の本願を信じるよりほかはありません。
私たちの心に阿弥陀如来の本願が届き、信心が生じると、喜びの心が身体にあふれ念仏に生きる身となります。その後は、この世でいくら煩悩に悩まされようとも、煩悩のあるままの姿で必ず浄土に往生し仏になることができます。
だれも自力で極楽浄土に往生することはできませんが、凡夫であろうと、聖人であろうと、五逆を行うような悪人であろうと、仏法をそしるような人であろうと、自力を頼みとする心を改め阿弥陀如来の本願を信じるときには、だれもみな平等に極楽浄土という涅槃の大海に入ることができます。それはさまざまな川から流れ下った水がひとたび海に流れ込むと一つの海水になるのと同じです』
*興出(こうしゅつ):この世に出ること。
*五濁(ごじょく):五つの汚れた状態。劫濁-汚れきった時代。見濁-思想の乱れ。煩悩濁-煩悩が激しくさかんであること。衆生濁-人々が悪事を犯すばかりであること。命濁-寿命がしだいに短くなること。
*大乗仏教の究極の悟りは「煩悩即菩提 生死(しょうじ)即涅槃」で表すことができるという。
*一念:信心のこと。一声の称名(善導大師や法然上人の考え)。信心をいただいた瞬間(親鸞聖人の考え)
*喜愛心:歓喜愛楽(ぎょう)の心。信心のこと。
摂取心光常照護(せっしゅしんこうじょうしょうご)
己能雖破無明闇(いのうすいはむみょうあん)
貧愛瞋憎之雲霧(とんないしんぞうしうんむ)
常覆真実信心天(じょうふしんじつしんじんてん)
譬如日光覆雲霧(ひにょにっこうふうんむ)
雲霧之下明無闇(うんむしげみょうむあん)
獲信見敬大慶喜(ぎゃくしんけんきょうだいきょうき)
即横超載五悪趣(そくおうちょうぜつごあくしゅ)
「摂取不捨の光明は信心を得たものを常に照らし守っており、すでに無明の闇は破られています。しかし私たちの愛欲、怒り、憎しみの心の雲霧は常にまことの信心を覆っています。例えば雲霧が日光を覆い隠しているようなものです。しかし信心をいただいているものは雲霧の下でも明るく闇はありません。
信心を得れば仏を敬い大いに喜ぶ心があふれ、一気に五悪趣を飛び越えて迷いの世界を離れることができます」
『 阿弥陀如来の本願を信じるものは、いつでもどこでも仏の摂取不捨の光りに照らされ護られています。ですから、私たちの無明の暗闇はなくなっているはずなのですが、私たちの好きなものを貪り愛し、嫌いなものを怒り憎む心が阿弥陀如来の振り向けてくださった真実の信心を覆い隠しています。例えば雲霧が日光を覆い隠しているようなものです。しかし 信心をいただいていてそれを疑わないものには雲霧の下でも心は明るく仏の本願を疑うような闇はありません。
阿弥陀如来の本願を信じる心が得られたときには、私たちはこの上ない喜びに満たされ、そして、仏の智慧の働きにより、すなわち、念仏の働きにより、地獄、餓鬼、畜生、人、天の五つの悪い世界を一気に飛び越えて、凡夫でありながら、あの世では浄土に往生し仏になることができるのです』
*摂取心光:阿弥陀如来の摂取不捨の光明。仏が慈悲の心で一切の衆生をしっかり受け入れ救済される光。
*無明闇:仏の知恵を疑う心。
*貪愛(とんない):好きなものを貪り愛すること。
*瞋憎(しんぞう):嫌いなものを怒り憎むこと。
*五道:五悪趣ともいう。地獄、餓鬼、畜生、人、天の総称。これに阿修羅を加えて、六道、六悪趣ともいう。趣とは輪廻転生する世界のこと。六道の間を生まれ変わり、死に変わりして、迷いの生を続けることを六道輪廻という。
一切善悪凡夫人(いっさいぜんまくぼんぶにん)
聞信如来弘誓願(もんしんにょらいぐぜいがん)
仏言広大勝解者(ぶつごんこうだいしょうげしゃ)
是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)
「一切の善悪の凡夫が、阿弥陀如来の弘大な誓願を聞き信じるなら、その人は優れた名号の理解者だとお釈迦様は仰っています。このような人を白蓮華と名づけられた」
『一切の凡夫が、善人であろうと、悪人であろう、阿弥陀如来のすべての人を救いたいという、いつでも、どこでも働き続けているこの弘大な本願を納得いくまで聞いて信じるなら、釈尊はその人を讃えて、勝れた智慧を持つ名号の理解者だとおっしゃっています。私たち凡夫は煩悩に満ち溢れた泥沼のような世の中に暮らしていますが、それにもかかわらずこの仏の本願を信じるものには、釈尊はその人を讃えて、泥沼のような世の中に咲いた白蓮華蓮の花のようだとおっしゃっています』
*聞信:本願を聞いて信じること
*広大勝解者:広大殊勝の領解者。広大殊勝の法である名号を領解したもの。
*分陀利華:白蓮華
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*結誡(けっかい)
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*依経段(えきょうだん)の結びの部分。
弥陀仏本願念仏(みだぶつほんがんねんぶつ)
邪見憍慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)
信楽受持甚以難(しんぎょうじゅじじんいなん)
難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)
「阿弥陀仏の本願である念仏は邪見や思い上がりの悪人にとってこれを信じ受け取り持ち続けることは難しいことであり、その難しさはこれに過ぎるものはありません」
『阿弥陀如来は、悩み苦しんでいる一切の衆生をもれなく救いたいという本願により、衆生を救うために、「南無阿弥陀仏」という名号を私たちに等しく与えられた。ところが、私たちは、道理にそむいたよこしまな思いから離れられず、思い上がって、阿弥陀如来の本願よりも、自分の考えのほうを信用し大切にしています。そのため、自分がこれまで輪廻してきた六道のほうが恋しく、いまだ生まれたことのない西方浄土は恋しいなどと思いません。
阿弥陀如来の本願によって、念仏がこの私に差し向けられていることを疑わず素直に信じて喜び、その念仏をしっかりといただき、さらにそれをいただき続けることは非常に難しいことであり、これより難しいことはありません』
*邪見:誤った見解
*信楽(しんぎょう):本願を信じる心
*
*依釈段(えしゃやくだん)
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*念仏の教えを正しく伝えてくれた七人の高僧の教えをそれぞれの高僧が書かれた注釈書を通じ紹介し讃える部分。この七高僧は、阿弥陀仏の本願による他力の信心が私たちに差し向けられていることを説いた。
*
*総讃(そうさん)
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印度西天之論家(いんどせいてんしろんげ)
中夏日域之高僧(ちゅうかじちえきしこうそう)
顕大聖興世正意(けんだいしょうこうせしょうい)
明如来本誓応機(みょうにょらいほんぜいおうき)
「西方インドの論者、中国や日本の高僧たちは、釈尊の出世の本当の意味を明らかにし、阿弥陀如来の本願が機に応じて差し向けられていることを明らかにされた」
『インドの竜樹菩薩と天親菩薩、中国の高僧、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、日本の高僧、源信僧都、源空上人の七人の高僧は大聖釈尊がこの世にお出ましになったその本当の理由は、「阿弥陀如来の本願を説かれること」にあったということを明らかにされた。
七人の高僧は阿弥陀如来の本願が私たち一人一人に、それぞれの能力に応じて、差し向けられていることを明らかにされた』
*論家:論を作った人。経は仏の説法。論は菩薩の説。釈は高僧の説。
*中夏:中華
*日域:日本
*大聖:釈尊
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*竜樹章
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*竜樹:南インドに生まれ、西暦150年ころから250年ころの間に活躍した。大樹の根元で生まれ、竜王に養われ導かれて大乗の教えを体得したので、「竜樹」と呼ばれるようになったという。「中論」や「大智度論」「十住毘婆沙論」などを著し、大乗仏教の祖といわれ、日本では八宗(全ての宗派)の祖師として崇められている。
竜樹は釈尊が説いた縁起の教えを空という思想で解明した。ものごとを実体のあるものと考えてはならない。ものごとに執着するとそれが実体のあるものになってしまう。しかし実体のあるものは存在しないと説いた。
釈尊は、最初の説法で、あらゆる偏見を捨てて正しい見解にたつように説いた。すなわち中道こそ大切であることを明らかにした。竜樹はそれを無所得空という言葉で表現した。
*無所得空:所得とはとらわれる心、こだわる心。これが無いことを無所得という。すべてのものごとは因縁によって生じる。これこそ変わることの無い実体だといえるものはないから空である。空であると悟るとものごとにとらわれることも無くなる。
*縁起:この世のすべてのものごとは、さまざまなものが縁があって寄り集まり、仮に現れたに過ぎない。わたしたちはそれを実体視し、単独で成り立っていると考えているが、実はそのような独立して存在する実体はない。(無自性)
釈迦如来楞袈山(しゃかにょらいりょうがせん)
為衆告命南天竺(いしゅごうみょうなんでんじく)
竜樹大士出於世(りゅうじゅだいししつおせい)
悉能摧破有無見(しつのうざいはうむけん)
宜説大乗無上法(せんぜつだいじょうむじょうほう)
証歓喜地生安楽(しょかんぎじしょうあんらく)
「釈迦如来は楞袈山(りょうがせん)で人々に告げられた。南インドで、竜樹菩薩が世に出られ、有や無の考え方をことごとく打ち破ってしまうだろう。大乗という無上の法を述べ、この世で悟りを得て歓喜地の位につき、あの世では安楽国にうまれるであろうと」
『釈尊が楞袈山(りょうがせん)で多くの人々に教えを説いておられたときに、はるか後の世に南インドに、竜樹という名の菩薩が生まれるだろう。その菩薩は、ものにこだわり執着してものが実在するとかあるいは実在しないとかなどと考える誤った考え方を打ち砕くだろうと述べられた。
釈尊はまた、竜樹菩薩は阿弥陀如来の本願というこのうえなく勝れた教えを広めるであろう。そして、この世で悟りを得て、菩薩の最高の位である歓喜地(かんぎじ)の位につき、あの世では、安楽国、すなわち阿弥陀如来の極楽浄土に生まれ、仏になるであろうという予告をされた』
*楞袈山:セイロンにあると言う険しい山
*大士:仏になろうとする大きな志を持つ人。菩薩。
*有無見:見とは誤った見解。邪見。ものは因縁によって生じることを知らず、ものがそこに実在するとか実在しないとか考える邪見。
*法:仏教では1,真理。釈尊の教え。2.存在するもの
*大乗無上法:1.無上の教えである大乗の教え。2。大乗の中でも無上の教えである阿弥陀仏の名号(親鸞聖人の考え)。
*歓喜地:菩薩が仏になるためには、六波羅蜜の修行(布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定、般若(完全な知恵))をしなくてはならない。初めて仏になろうとする志を立てた菩薩は初発心の菩薩といい、六波羅蜜の修行をし、仏の境地に至るまでには、五十二の菩薩の階位を経なくてはならない。その階位のうちの下から数えて四十一番目の階位が歓喜地あるいは初地と呼ばれる階位であり、この階位にいたると間違いなく仏になれるという確信が湧き、たとえようのない喜びに満たされるので、歓喜地という。歓喜地はこの世における最高の位。正定聚の位。不退転の位であり、この位につくと決して後戻りすることはない。あの世では必ず仏の位につくことが保障されている位。最上階の五十二番目の位は仏の位。
*安楽:安楽国。阿弥陀如来の浄土。極楽浄土。
顕示難行陸路苦(けんじなんぎょうろくろく)
信楽易行水道楽(しんぎょういぎょうすいどうらく)
憶念弥陀仏本願(おくねんみだぶつほんがん)
自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)
唯能常称如来号(ゆいのうじょうしょうにょらいごう)
応報大悲弘誓恩(おうほうだいひぐぜいおん)
「竜樹菩薩は自力の修行は険しい陸路を苦労して歩いて行くようなものであり難行で苦しく、例えば阿弥陀仏の本願を信じるのは、船で水路を行くように易行で楽しいことを明らかにされた。
また竜樹は、阿弥陀如来の本願をいつも心にかけていると、自ずから直ちに不退転の位に入り、その後はただ如来の名号を常に称え、如来の大悲と広大な誓いのご恩に報いるだけだと述べられた」
『竜樹菩薩は仏道修行には難行道と易行道とがあり、難行道は自分の力を頼りにして、険しい陸路を進もうとするようなもので、自力で修行を重ねる聖道門(しょうどうもん)であり、易行道は他力によるもので、阿弥陀如来の本願という船に乗せてもらって、楽しく水路を行き浄土往生ができる浄土門のようなものであることを明らかにされた。
阿弥陀如来の本願を心に憶い信じるものは、信心をえたそのときに、自ずから直ちに本願力の働きにより、この世にいながら、あの世では仏になることが決定している不退転の位に入ります。その後は、私たちは、ただただ「南無阿弥陀仏」という名号を称えて、私たち凡夫を助けたいと願っておられる阿弥陀如来の大悲に感謝し、その大きなご恩に報いる生活を送るだけですと述べられた』
*信楽:阿弥陀如来の本願、特に第十八願を信じること。
*憶念:心に憶って忘れないこと。
*自然:おのずから然らしむるという意。
*入必定:仏になれることが決定している位に必ずはいること。
*竜樹は「易行品」の中で次のように述べている。
「およそ大乗仏教の救道者の歩む菩薩道は難業そのものであり、あたかも陸路を歩む人のように労苦に満ちている。そこで難業の菩薩道を達成するためには、「信心をてだてとする易行」(信方便の易行)によるべきで、これはあたかも船に乗って水路で行く人のように安楽そのものである。易行道の教えとは、阿弥陀仏の本願を信ずるものは信心を得たそのとき、本願力の働きによって、仏の悟りをひらくに決定した不退(転)の位に入るから、ただ常に「南無阿弥陀仏」と名号を称えて、如来大悲のご恩に報いる生活を送るべきである」「入門教行信証 正信偈をよむ」(早島鏡正、NHK出版)
竜樹は阿弥陀如来の本願力によってこそ、この世において正定聚不退転の位につくことができると考えた。竜樹は仏教を釈尊の自力による解脱中心から、他力による救済中心へ変えた。
*信心正因。称名報恩:これは浄土真宗の教義の中心。親鸞聖人はこの世で阿弥陀如来の本願を信じると、信心を得たそのときに、あの世で間違いなく仏となる位につく、すなわち正定聚不退転の位を得る。すなわち本願力により極楽往生が決定する(信心正因)。信心をえたその後は常に称名し如来大悲の恩に奉ずべきである(称名報恩)といわれた。親鸞聖人はこの考えを竜樹菩薩の指南によるものだと考えられた。
*
*天親章
*
*天親菩薩:釈尊の時代からおよそ800年後、竜樹菩薩が亡くなってから、およそ200年後、西暦400年ころに北インドの地に生まれ、480年ころ亡くなったと推定される。「天親」という呼び名のほかに「世親」という呼び方もされている。初め小乗仏教の流れである部派の学問を究め「倶舎論(くしゃろん)」を著した。
後に兄の無着の説得により大乗仏教の教えを学び、瑜伽行唯識派を大成した。唯識とは「唯(ただ)、識(しき)のみがある」、つまり「われわれの現象世界は心の働きの現れであり、認識の表れであって何一つ実在するものはない」と説き、そのことを理論的に証明した。
晩年になって自力でこの世で悟りを開くことが不可能であることを知り、阿弥陀如来の本願に身をゆだねることこそ釈尊の願いであることに気づいた。阿弥陀如来の浄土に往生しようと「浄土論」を表し、人々にも浄土への往生を願うよう勧めた。
天親は真実の世界は色も形もないのだが、しかしそれでは凡夫にはわからないので、阿弥陀如来や極楽浄土の形をとって現れたと考えた。これにより、はじめてわたしたちの心の中に浄土へ往生したい、正定聚の仲間入りをしたいという心が生まれるようになったといえる。
天親は浄土論の中で初めに阿弥陀如来や菩薩たちや極楽浄土のすばらしいありさまを述べ、次に阿弥陀如来を礼拝し、讃嘆し、作願し、観察し、回向する、五種の行(五念門)により浄土に往生すると説かれた。
親鸞聖人はこの五つの行はすでにわれわれに代わって法蔵菩薩が修せられており、法蔵菩薩はその結果をわたしたちに信心として回向されており、わたしたちがそのことに気づくとき称名が自ずから出てくるのだと考えられた。
天親菩薩造論説(てんじんぼさつぞうろんせつ)
帰命無碍光如来(きみょうむげこうにょらい)
依修多羅顕真実(えしゅたらけんしんじつ)
光闡横超大誓願(こうせんおうちょうだいせいがん)
広由本願力回向(こうゆほんがんりきえこう)
為度群生彰一心(いどぐんじょうしょういっしん)
「天親菩薩は「浄土論」を著わされ、無碍光如来に帰命し安楽国に往生しますと述べられた。「仏説無量寿経」というお経によって真実を顕かにし、阿弥陀仏の第十八願の意味を広く説き表された。
広く阿弥陀如来が衆生を救うために第十八願の本願力を回向してくださっている。衆生はそのことを一心に信じるだけだということを彰かにされた」
『天親菩薩は、「仏説無量寿経」というお経に出会われて、「浄土論」を著され、その中で、「私は心を一つにしてひたすら、尽十方無碍光(じんじぽうむげこう)如来すなわち阿弥陀如来に帰依し、阿弥陀如来の極楽浄土である安楽国に生まれたいと願っております」と述べられている。
天親菩薩は、「仏説無量寿経」により、「南無阿弥陀仏」の名号こそ真の徳をそなえたものであるということを顕かにされた。「南無阿弥陀仏」の名号を称えるものは、たとえわたしたちのような凡夫であろうと、わたしたちの住んでいる穢土を一気に飛び越え浄土に往生できるのであり、このことが阿弥陀如来の大誓願すなわち第十八願の本願力であることを顕かにされた。
天親菩薩は、わたしたちを救うためにすべての人に差し向けられている阿弥陀如来の本願の中でも第十八願を一心に信じて疑わないことこそまことの信心であることを顕かにされた。私たちには回向する善根が全く備わっていないので私たちは自力では極楽往生できない。そのような私たちが救われる唯一つの道は、阿弥陀如来の本願によって私達に振り向けられている「南無阿弥陀仏」という名号を頂くことだけなのです』
*論:天親菩薩の「浄土論」
*無碍光如来:尽十方無碍光如来のこと。阿弥陀仏の光明はなにもにも障げられることなく十方の世界を照らすので尽十方無碍光如来と呼ぶ。阿弥陀如来の別名。
*修多羅:「スートラ」を漢字に当てはめたもので、織物の縦糸のことを表す。織物の縦糸のことを中国語では「経」という。織物では横糸が模様を編み出し、縦糸は表面には出ない。お経によってはいろいろ表現が変わっても、釈尊の教えた真実は織物の縦糸のようにいつでもどこでも変わらないので「経」と呼んだ。インドの竜樹と天親の著わしたものは「論」、中国と日本の高僧の著わしたものは「釈」と呼ぶ。
*光闡:広く説き表すこと。
*横超大誓願:阿弥陀如来の第十八願
*回向:お経を読んだり仏の名前を称えたりして得た功徳を亡くなった人などに回すこと。
浄土真宗では衆生には回向する善根がまったくないので阿弥陀如来のほうから私たちに名号を回向してくださっているのだと考える。如来の回向はあるが衆生の回向はないと考える。
*度:救済
*群生:群れを成して生きているもの。衆生。
*一心:天親は浄土論の中で「世尊(釈尊)よわれ一心に無碍光如来(阿弥陀仏)に帰依して安楽国に生まれんと願ず」と述べられている。あまねく多くの衆生とともに往生したいとも述べられている。親鸞聖人この一心を、信心の一つにより往生する、すなわち一心により往生するという意味だと考えられた。
*私たちは自分の力では、浄土に往生できる原因を作れないので、そのことを哀れんだ阿弥陀如来は、私たちが凡夫人のままの姿で往生できるようにされた。すなわち、阿弥陀如来は私たち衆生が浄土に渡る(往生する)ことのできる原因を回向された。私たちにできることは「南無阿弥陀仏」の名号を疑うことなく、ありがたくいただき、称えることだけで、これこそまことの信心といえる。
帰入功徳大宝海(きにゅうくどくだいほうかい)
必獲入大会衆数(ひつぎゃくにゅうだいえしゅじゅ)
得至蓮華蔵世界(とくしれんげぞうせかい)
即証真如法性身(そくしょうしんにょほっしょうしん)
遊煩悩林現神通(ゆうぼんのうりんげんじんづう)
入生死園示応化(にゅうしょうじおんじおうけ)
「功徳に満ちている大海に入ると、必ず大会衆の仲間入りをします。蓮華蔵世界に入ることが出来れば、そのままの身で真実の悟りを得た身になります。煩悩の林に出入りして神通力を現し、生死の園に出入りしてその人に応じた働きかけをします」
『あらゆる衆生を救いたいという阿弥陀如来の本願により回向された「南無阿弥陀仏」の名号は功徳にあふれるものです。この名号を心から信じるなら、必ずや、この世にありながら、正定聚不退転の位につき、浄土で阿弥陀如来の説法を聴聞している菩薩たちの仲間に入ることができます。
阿弥陀如来の極楽浄土は、仏たちの浄土の中でも最も優れた浄土であり、この穢土でさまざまな煩悩に悩み苦しむ凡夫のために用意された浄土です。そこに入ることができれば、真実そのものに目覚め、直ちに仏になり阿弥陀如来の悟りと同じ悟りを得ることができます。
浄土に往生した人は、浄土にとどまるだけではなく、煩悩や老病死に苦しむ人々の穢土に自由に出入りし、そこで苦悩する人々に、それぞれに応じた働きかけをするようになります』
*帰入:帰依すること。信じること
*功徳大宝海:功徳の宝にあふれる海。名号。
*大会衆:浄土で阿弥陀如来の説法を聞いている人々。名号を信じるもの。名号を信じる者はこの世にありながら浄土の菩薩の仲間入りできる。
*蓮華蔵世界:蓮華により飾られている浄土。ここでは阿弥陀如来の浄土。
*即証:浄土に生まれると同時に悟りを得ること
*真如法性身:真実でありすべての教えの本となるもの。阿弥陀如来。
*遊:仏が衆生を救うこと
*煩悩林:迷いの世界
*神通:神通力。不思議な力。
*生死園:生死を繰り返すところ。迷いの世界。
*応化:その人の迷いに応じて救うこと
*
*曇鸞章
*
*曇鸞大師(476-542):大師は476年北魏に生まれた。厳しく研究に打ち込んだために、病にかかり、南方の梁に住む仙人のところへ赴いて、不老長寿の法を学んだ。北の北魏に帰る途中で、インドから中国に来ていた菩提流支(ぼだいりるし)に出会った。菩提流支は曇鸞に仙術を学んで、少々の長生きをしてもやがては死ぬのであり、それよりは阿弥陀如来を念じることにより極楽浄土に往生して、限りない命をえることの大切さを教えた。大師は菩提流支に与えられた「浄土論」を読み、深く感じるところがあり、長寿の法を説いた仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。
曇鸞は浄土は真実そのものの働きの現れであり、真実の世界・悟りの世界が、阿弥陀如来の本願力により、私たちを真実の世界・悟りの世界へ帰入させるために、私たちにわかるような形をとって現れたものが、浄土のしつらい(姿・形)であると考えた。曇鸞は「他力」の思想を仏教の中に正しく位置づけた。
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし)
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい)
三蔵流支受浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
焚焼仙経帰楽邦(ぼんじょうせんぎょうきらくほう)
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)
「梁の天子は常に浄土真宗の祖師である曇鸞大師のおられる北方に向かい菩薩として拝んでおられた。三蔵に通じておられる菩提流支が「観無量寿経」を大師に授けたところ、大師は道教の経典を焼き阿弥陀仏の教えに帰依された。天親菩薩の浄土論に注釈をつけ、浄土の因果は阿弥陀如来の誓願によるものだと顕かにされた」
『曇鸞大師は北魏に住んでおられた。その名声は、南方の梁の国にも知られ、梁の皇帝である武帝は大師を菩薩として敬い、常に大師のおられる北魏のほうへ向かって礼拝しておられた。
菩提流支は大師に「観無量寿経」を示し、阿弥陀如来の教えを授けられた。大師は、この教えに触れ、仙術を学んで、少しばかりの不老長寿を得たところで、益のないことを知り、阿弥陀如来を念じ、念仏によって浄土に往生する信心を得られた。そして、今まで熱心に学んでいた長生不老の仙人になるためのお経を焼き捨ててしまわれた。
曇鸞大師は、天親菩薩の書かれた「浄土論」を注釈して、「浄土論注」をお書きになり、その中で極楽浄土が建立される原因となったのも、その結果として浄土が建立されたのも、阿弥陀如来の本願力によるものだということを明らかにされた』
*本師:浄土真宗の祖師。七人の高僧。ここでは曇鸞
*梁天子:梁の武帝
*三蔵流支:菩提流支とも呼ばれる。三蔵に通じておりインドから北魏の都洛陽で仏典を中国語に翻訳していた。経、律、論の三蔵に詳しいので三蔵流支と呼ばれる。
*三蔵:仏教の経蔵と律蔵と論蔵の三蔵
*菩提:心理への目覚め。悟り。智慧。
*浄教:浄土の経典
*仙経:仙人の伝える経典
*楽邦:楽しみの多い邦(くに)。阿弥陀如来の浄土。
*報土:阿弥陀如来の浄土
*論:天親菩薩の書かれた浄土論。
*報土:阿弥陀如来の浄土。阿弥陀如来の四十八願に報われてできた浄土。
往還回向由他力(おうげんえこうゆたりき)
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
惑染凡夫信心発(わくせんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
諸有衆生皆普化(しょううしゅうじょうかいふけ)
「曇鸞大師は、「往相回向」も「還相回向」も他力によるものであり、正定聚不退転の位につける因となるのは唯信心だけであり、煩悩に惑わされる凡夫であっても信心が生まれれば、迷いの身のままで悟りを得ることが出来ることを顕かにされた。無量光明土(極楽浄土)に入れば必ず、穢土の衆生をあまねく教え導くことが出来ると教えられた」
『大師は「往相回向」も「還相回向」も阿弥陀如来の本願力により私たちに差し向けられたものであり、わたしたちに阿弥陀如来の本願力を信じる心が生じれば、間違いなく、現世において正定聚不退転の位につき、来世では浄土に往生して仏になることができると説かれた。
大師は、たとえどのように惑い迷っている凡夫であろうとも、その心の中に、阿弥陀如来の本願力により信心が起これば、迷いのままの状態で悟りを得、迷いから開放されることを明らかにされた。
大師は、私たちが阿弥陀如来の浄土である「無量光明土」(極楽浄土)に往生し仏になると、必ず、私たちは迷いの世界に立ち戻り、あらゆる人々を教え導くことになると説かれた』
*往還回向:「往相回向」と「還相回向(げんそうえこう)」:阿弥陀如来の浄土に往生することを「往相」といい、浄土に往生した人が、迷いに満ちたこの世界に働きかけることを「還相」という。釈尊は悟りをえて、仏になり(往相)、それに満足することなく、迷っている私たちを救うために教えを示された(還相)。ここに自利と利他が一つになった大乗仏教の根本理念がある。しかし、凡夫にとっては、往相も還相もどちらもとてもできない。そこで阿弥陀仏は浄土への往相と浄土からの還相の両方を私たちに振り向けられた。すなわちわたくしたちに回向されたので、この二つの回向をそれぞれ「往相回向」「還相回向」という。
*正定之因:間違いなく黄土往生がかなう因。往相の因。信心。
*惑染:煩悩のこと
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
*無量光明土:無量の光明のあふれる浄土。阿弥陀仏の浄土。
*諸有:もろもろの迷いの世界
*
*道綽章
*
*道綽禅師(562-645):当時の僧は仏教の教理を探求し、戒律を厳しく守り、実践的な修行に励んでいた。教理の探求に勝れた人を「法師(ほっし)」、戒律に精通した人を「律師」、実践修行に勝れた人を「禅師」と呼んでいたが、道綽禅師は実践修行に勝れていたために、特に禅師の称号をつけて呼ばれる。道綽禅師は曇鸞大師の徳をたたえる石碑を読んで、深く感銘を受け、浄土の教えに帰依し、阿弥陀如来の名号を称える念仏に専念した。人々にも称名念仏を勧め、「安楽集」を著した。
禅師の生まれた頃は中国では、末法の時代に入ったばかりだと信じられていた。禅師の教えは末法思想の影響を強く受けている。
禅師は徳の高い曇鸞大師でさえ、自力修行によりこの世で仏になることを目指す聖道門から阿弥陀如来の他力によりあの世で仏になり極楽往生をする浄土門に入られたのだから、私など自力で悟りを得ることはとてもできないと思い浄土教に入られた。当時は厳しい仏教弾圧もあり、しかも五濁(ごじょく)にまみれた末法の世の中であり、自力による厳しい修行を重ね悟りに近づこうとする聖道門の教えは実践できない教えであり、浄土門の教えしか残されていないと考えた。
禅師は自力でこの世で悟りを開く聖道門の教えと他力によりあの世で悟りを開く浄土門の教えの二通りの教えがあることを初めてはっきりと述べた。
禅師は「安楽集」の中で、『阿弥陀如来は自らの願いと修行によって報われた仏、すなわち「報身(ほうじん)」であり、その仏国土は「報土」である。また、浄土に生まれたいと願う「願生心(がんしょうしん)」は大乗仏教で言う菩提心のことで、浄土に往生することは、自利と利他の二つを完成する大乗の菩薩道そのものである』と述べている。
道綽決聖道難証(どうしゃくけっしょうどうなんしょう)
唯明浄土可通入(ゆいみょうじょうどかつうにゅう)
万善自力貶勤修(まんぜんじりきへんごんしゅう)
円満徳号勤専称(えんまんとくごうかんせんしょう)
「道綽禅師は聖道門の教えでは悟りを得るのが難しく、浄土門の教えによってのみ往生できることを顕かにされた。さまざまな自力修行に勤め励むのを退けられ、優れた功徳を備えた名号をひたすら称えることを勧められた」
『道綽禅師は、今は末法の世の中であり、自力で修行しこの世で仏になろうとする聖道門の教えでは悟りを得ることは難しいことを明らかにされた。末法の世で凡夫が救われるのは、阿弥陀如来から差し向けられている「南無阿弥陀仏」という念仏により浄土に往生し、あの世で仏になるという浄土門の他力の教えによるしかないことを明らかにされた。
禅師は、自分の力を信じさまざまな善根功徳(ぜんごんくどく)の修行に勤め励む「聖道門」は末法の時代にそぐわないと退けられた。「南無阿弥陀仏」という名号こそ、阿弥陀如来の本願力により、私たちに回向されている名号であり、悟りを開くための功徳がすべて完全に備わった円満の徳号であるので、その名号をただただ称えることを、禅師は人々に勧められた』
*聖道:聖道門。自力で修行し、この世で仏になろうとする道
*浄土:浄土門。阿弥陀如来の本願力という他力により、あの世で浄土に往生して仏になる道。
*万善:多くの善根を積むこと。
*貶:抑えること。
*勤修:熱心に修行すること
*円満徳号:「南無阿弥陀仏」という名号。
阿弥陀如来はわれわれに代わって、われわれが浄土に往生するのに必要な功徳を全部名号の中に成就し、われわれに与えてくださっている。だから、その与えられた「南無阿弥陀仏」の名号を信じ、称えるだけで、われわれは浄土に往生し仏になることができると道綽は説いている。道綽は、浄土に生まれたいという心を起こしながら、他力の念仏を疑い、自分のはからいを加え、念仏以外の助けを借りて浄土に生まれようとするのは自力であるという。道綽は、自分は凡夫であり、悪人であり、末法の世に生きているという自覚を強く持っていた。
*専称:もっぱら称名すること
*円満の徳号:「南無阿弥陀仏」の名号のこと。阿弥陀如来はわれわれに代わって、われわれが浄土に往生するのに必要な功徳を全部名号の中に成就し、われわれに与えてくださっている。だから、その与えられた「南無阿弥陀仏」の名号を信じ、称えるだけで、われわれは浄土に往生し仏になることができると道綽は説いている。道綽は、浄土に生まれたいという心を起こしながら、他力の念仏を疑い、自分のはからいを加え、念仏以外の助けを借りて浄土に生まれようとするのは自力であるという。道綽は、自分は凡夫であり、悪人であり、末法の世に生きているという自覚を強く持っていた。
三不三信誨慇懃(さんぷさんしんけおんごん)
像末法滅同悲引(ぞうまつほうめつどうひいん)
一生造悪値弘誓(いっしょうぞうあくちぐせい)
至安養界証妙果(しあんようかいしょうみょうか)
「道綽禅師は三不三信の教えを丁寧に教えられ、像法末法法滅の世に生きる衆生を導かれた。一生悪を重ねたものでも阿弥陀如来の誓いにかなえば、極楽浄土に往生し仏になることが出来ると説かれた」
『道綽禅師は、曇鸞大師の述べられた三つの正しくない信心のすがた(三不信:率直でなく、自力が混じっていてもっぱらでなく、長く続かない信心)と三つの正しい信心のすがた(三信:率直で、もっぱらで、長く続く信心)とを分かりやすく丁寧に教えてくださった。像法、末法、法滅のどの時代に生きていようと自力による修行は何の役にも立たちません。阿弥陀如来はそれを哀れんで、如来の本願を信じる者には、像法、末法、法滅のどの時代に生きるものにも同じように、「南無阿弥陀仏」の名号を授けられたと説かれた。
道綽禅師はたとえ、一生の間、さまざまな悪を行うようなものでも、阿弥陀如来の広大な本願に出遭いそれを信じることがあれば、如来の浄土(安養界)に往生し、悟りを開いて仏になることができることを教えられた』
*三不三信:三不信と三信。曇鸞大師の浄土論注に出てくる言葉。
三信は淳心、一心、相続心。三不信は不淳信、不一心、不相続心。
淳心はすなおに本願を信じる心。一心は疑うことなく信じる心。相続心は長く続いて信じる心。
*誨:教え導くこと。ものごとをよく知らないものを教えさとすこと。
*像末法滅:像法、末法、法滅。仏教は、正法(しょうほう)、像法(ぞうほう)、末法という三つの時代を経て、やがて滅ぶと考えらていた。
釈尊が亡くなって後、はじめの五百年は「正法」の時代で、教え(教)が正しく伝わり、正しい修行(行)ができるので、正しい悟り(証)がえられる。
次に「像法」の時代に入り、これが千年続く。この時代には像(かたち)ばかりの教えが伝わり、像ばかりの修行が行われ、正しい悟りは得られない。
そしてその後「末法」の時代が一万年続く。かろうじて、教えは伝わっているのだが、その教えは不十分であり、厳しい修行をしても正しい修行はできず、正しい悟りもえられない。
その一万年が終わると「法滅」となり、仏法は完全に衰滅する。「法滅」の後は、やがて、遠い未来に次の仏が生まれ、また「正法」の時代に入る。このような考え方が生まれた背景にはマウリヤ王朝(317-180BC)滅亡後に西北インドに異民族が侵入し、人々が圧政に苦しめられたことがあるといわれている。
道綽は像法、末法、滅法の時代の衆生は自力で修行し仏になろうとする聖道門の教えでは救われない。阿弥陀如来の本願を信じ、如来の大悲により浄土に導いてもらい仏の悟りを得るしかないと考えた。
*悲引:阿弥陀如来の大きな慈悲により浄土に引導すること。
*値:まともに当面すること。
*弘誓:広大な請願。阿弥陀如来の本願。特に第十八願。
*安養界:(あんにょうかい)安養浄土。阿弥陀如来の浄土。阿弥陀如来の浄土に往生すれば心を安んじ身を養うからいう。
*妙果:悟りを開いて仏になること。
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*善導章
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*善導大師(613-681):大師は唐の時代、山東省に生まれ、二十歳をすぎて道綽の門に入り、一般民衆に念仏の教えを広めた。善導大師は「観無量寿経」(略して観経)を注釈した「観無量寿経疎」(略して観経疎)を著され、その中で、「観無量寿経」に関する古今の解釈の誤りを正し、釈尊が本当におっしゃりたいことを明らかにされた。すなわち韋提希(いだいけ)夫人の話は悩み多い普通の女性のために説かれた話だとはっきり述べられた。
当時の中国では禅定(瞑想)と念仏(仏の姿を心に思い浮かべること)は一体であり、特に区別しなかった。大師は念仏の本義を明らかにするために、あえて、はっきりと分けた。
また、大師は、「南無阿弥陀仏」の称名は阿弥陀如来の本願力にもとづくものであることを明らかにし、自分勝手な称名ではなく、仏の本願による称名だからこそ、「南無阿弥陀仏」の称名だけで浄土に生まれることができることを明らかにした。日本の浄土教における、特に法然の専修念仏は善導の教えを受け継いでいる。
大師は自分が一生悪をし続ける凡夫であることを深く自覚され、「禅定観法」により阿弥陀仏を見たり、浄土のありさまを観察することで浄土に往生しようとするような自力の修行は自分にはとてもできない。そのような下品下生の凡夫であってもそれを救うために阿弥陀如来は、称名しただけで往生できる浄土を創られた。称名こそが正定業(正しく往生の決定する業因)であると述べている。
当時の多くの人は凡夫の行く浄土は応土であり、化土であると考えていたが、大師は阿弥陀仏の如来大悲の本願によってできた真実報土であることを明らかにされた。
善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶつしょうい)
矜哀定散与逆悪(こうあいじょうさんよぎゃくあく)
光明名号顕因縁 (こうみょうみょうごうけんいんねん)
「善導大師は釈尊の本当の心を顕かにされた。阿弥陀如来は定善、散善、十悪や五逆の罪を犯す悪人、すべての人を哀れんで、名号を因とし光明を縁とし浄土に往生させてくださることを顕かにされた」
『善導大師は当時の中国では「観無量寿経」に関する解釈について多くの誤りがあったのを正し、釈尊が本当におっしゃりたいことを明らかにされた。すなわち、阿弥陀如来は、瞑想し修行して自力で浄土を求める人、世間的な善行を積んで浄土を求める人、あるいは十悪や五逆の罪を犯す悪人、すべての人を哀れんで、「南無阿弥陀仏」の名号を直接の原因(因)とし、自ら放たれる智慧の光を間接の原因(縁)として、浄土往生という結果(仏果、仏の悟りをひらくこと)を、すべての人に施されていることを明らかにされた。
善導大師はただ名号を称えることを勧めて他の修行は必要ないことを説かれた。これは善導大師が始めて述べられたことです』
*仏正意:釈尊の本当に述べられたいこと。
*矜哀:哀れみ悲しく思うこと。
*定散:定善と散善。定善と散善については観無量寿経の中に詳しく述べられている。定善は息を整え心を鎮め、浄土と仏のありさまを観てゆくこと。散善は普段通りの心で悪いことをしないで善いことをして浄土往生の種にすること。
*逆悪:五逆と十悪。極悪人。
五逆は1.父を殺すこと。2.母を殺すこと。3.僧を殺すこと。4,僧の和を乱すこと。5.仏の体を傷つけること。
十悪(じゅうあく):身(しん)、口(くう)、意(い)の三業(さんごう)がつくる十種の悪。身が造る悪(1・生き物を殺すこと。2・盗むこと。3・淫らな愛欲)、口が造る悪(4・嘘をつくこと。5・二枚舌をつかうこと。6・悪口を言うこと。7・へつらうこと)、意が創る悪(8・むさぼること。9・怒ること。10・間違った考え方)。
*因縁:因は直接の原因、縁は因を助ける間接の原因。
*正定業(しょうじょうぎょう):善導は浄土に往生する因となるために修すべき修行を正行(しょうぎょう)」(正しい行い)といい、それ以外の雑多な行を雑行(ぞうぎょう)と名づけた。
正行には五つある。1・読誦(どくじゅ):経典を読むこと、2・観察:阿弥陀仏や菩薩たちを観察すること、3・礼拝:拝むこと、4・称名:「南無阿弥陀仏」を称えること、5・讃嘆供養(さんだんくよう):阿弥陀仏の徳を讃嘆し供養すること
善導はこのうちの四番目の称名こそが浄土に生まれるための正しい行業(ぎょうごう)、すなわち、正定業(しょうじょうごう)であり、それ以外の四つの行(読誦、観察、礼拝、讃嘆供養)はこの正定業を助けるための行ということで、助業(じょごう)であるとした。
また、善導は、称名は阿弥陀仏の本願力によるものであり、自分勝手に称えても往生できるというのではなく、仏の本願による称名だからこそ往生できることを明らかにした。
開入本願大知海(かいにゅうほんがんだいちかい)
行者正受金剛心(ぎょうじゃしょうじゅこんごうしん)
慶喜一念相応後(きょうきいちねんそうおうご)
与韋提等獲三忍(よいだいとうぎゃくさんにん)
即証法性之常楽(そくしょうほうしょうしじょうらく)
「善導大師は、阿弥陀如来の智慧の大海に入ると、念仏を唱えるものは金剛石のように固い信心を頂くことになる。あふれる喜びが沸き起こるその瞬間、韋提希(いだいけ)夫人のように、悟忍・信忍・喜忍の三つの心を得てこの世で正定聚不退転の位につき、あの世では常住・安楽の悟りを得ることができることを顕かにされた」
『善導大師は、名号のいわれを信じて、私達の目の前に広がっている阿弥陀如来の智慧の大海に入ると、如来の心が私のものになる。その時如来から金剛石のような固い真実の信心をいただき、おのずから喜びの心が沸き起こることを彰かにされた。
善導大師は、真実信心をいただくと、韋提希(いだいけ)夫人のように、仏の智慧を悟る心(悟忍・ごにん)・信心の定まった心(信忍・しんにん)・必ず往生することを喜ぶ心(喜忍・きにん)の三つの心を得て、この世で正定聚不退転の位につき、あの世では悟りを得て仏になり、極楽浄土に生まれて、いつまでも変わることなく安らかに楽しく過ごすことになると説かれた』
*開入:開悟帰入。
*大智海:広大な智慧の海
*金剛心:阿弥陀仏からいただいたなにものにも動じることのない信心。
*一念:心に深く思うこと。一回念仏すること。親鸞聖人は無量寿経で述べられている一念を「南無阿弥陀仏」を称える「行の一念」と真の信心である「信の一念」に分けられた。
*相応:和合すること。阿弥陀仏の智慧と和合すること。
*韋提:韋提希(いだいけ)。韋提希夫人の物語は「観無量寿経」の前半部で詳しく述べられている。
*三忍:喜忍、悟忍、信忍。喜忍は往生決定を喜ぶこと、悟忍は悟りに決定すること、信忍は如来の本願を信じること。
*即証:ただちにさとること。
*法性:ものごとのありのままの姿。ものごとの根本的な性質。実相。真如。
*常楽:常住不変で苦がなく楽であること。悟りの境界。
*韋提希(いだいけ)夫人の物語は「観無量寿経」の前半部で詳しく述べられている。
*
*源信章
*
*源信(942-1017):恵心(えしん)僧都源信といい、平安時代の中ごろ、大和の国当麻郷に生まれ、比叡山で勉強した。日本の天台宗では思考力のない草木や国土までも仏となることができると考えたが、源信はさらにこの考え方を進めて、極楽浄土では草木や鳥獣など自然の万物が説法をしていると考えた。救われるだけではなく救う側にもなっていると考えた。また源信は法蔵菩薩は往生して悟りを得て阿弥陀如来になり、浄土で衆生を救い、さらにこの世に仏陀として現れて、この穢土で人々を救ったと考えた。源信は「往生要集」を著し、この書の第一章で地獄について詳しく語り、第二章では浄土について語っており、「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の心がこの書にあふれている。この書の中での「穢土」とは輪廻の世界、すなわち、地獄から始まり天上界を含めた六つの迷いの世界(六道)のことをいう。厭離穢土とは、迷いの世界を解脱することを意味する。この「往生要集」は当時の中国の宋の国に伝わり、中国の学者や僧侶はその内容のすばらしさに大変驚いたという。
源信僧都の母は、源信に、世間の名利を求めてはならない、ひたすら仏道修行に励むように勧めたと、今昔物語の中に書かれている。
源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
偏帰安養勧一切(へんきあんようかんいっさい)
専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
「源信僧都は釈尊の一代の教えをよく調べて、みずから阿弥陀仏の教えに帰依し一切の衆生にもひたすら勧められた。専ら称名を修する人と念仏のほかに自力を交えて修する人の信心の浅い深いを判じられた。阿弥陀仏の浄土には真実報土と方便化土の二つがあることを示し、正しく区別された。
源信僧都は極重の悪人はただ念仏を称えるしかない。私もまた阿弥陀仏に摂取されているのに、煩悩はまなこをさえぎり仏を見ることが出来ないでいるにもかかわらず、仏の大悲は常に飽くことなく私を照らし続けていると仰っている。
『源信僧都は釈尊の生涯の教説をすべて調べて、釈尊の教えは、ひとえに末法の世に住むすべての衆生が救われる道は阿弥陀如来の本願をひたすら信じるほかないと考えられた。自らはもともと天台の教えを学ぶ身でありながら、阿弥陀如来の教えに帰依し、あらゆる人々に念仏を勧められた。
源信僧都は、阿弥陀如来の他力回向の信心をいただいて、もっぱら念仏行だけを修める専修の人と、念仏の外にもさまざまな行を雑(まじ)えて修める雑修の人とを区別し、信心の浅い深いを判断された。また阿弥陀如来の浄土を真実報土と方便化土に分け、専修念仏の人は真実報土に生まれ、雑修念仏の人は浄土のほとりにある方便化土に生まれることを明らかにされた。念仏以外の自力の行が混じる雑行をいましめ、専修念仏だけの正行を勧められた。
源信僧都は、悪事のみ行い善根の全くない極重の悪人は、ただ念仏を称えて浄土に生まれようと願うしかない。私もまた阿弥陀如来の摂取不捨の光りの中に照らされ、おさめとられておりながら、沸き起こる煩悩のために、まなこが覆われて、仏を見たてまつることができないでいる。それにもかかわらず、仏は大悲の心をもって、あくことなくいつでもどこでも常に私を照らし続けてくださっていると述べられている。(摂取不捨 大悲無倦)』
*広開:広く研究すること。
*一代教:釈尊の生涯の教え
*安養:安養浄土。安養界。
*一切:あらゆる衆生。
*専雑:専修(せんじゅ)と雑修(ぞうしゅ・ざっしゅ)。
専修は正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)を修すること。
雑修は雑行(阿弥陀仏に直接かかわりのない行ではあるが、しかし阿弥陀如来の浄土に往生する助けになる行)を修すること。
善導大師が初めて正行と雑行という言葉を使われた。
源信僧都は専修のものは報土である浄土に往生し、雑修のものは報土ではあるが方便の化土に往生すると考えられた。
*執心:執持する心。信心。
*浅深:信心の浅く堅固でないことと信心が深く堅固なこと。
*報化二土:報土と化土。真実の報土と方便化土。法蔵菩薩の四十八願のうちの真実の願に報いられた浄土と方便の願に報いられた浄土(方便化土)
*報土:阿弥陀如来は、法蔵菩薩という因位にあった時の真実の誓願と修行に報われて仏となられた報身仏であるので、その浄土を報土と呼ぶ。
報土には真実報土と方便化土の二つがある。親鸞聖人は報土を「真化二土」つまり、「真仏土」と「化身土」の二つに分けられた。
*真実報土・真仏土:光明無量の願(第十二願)、寿命無量の願(第十三願)によって成就された真の報土。阿弥陀如来の他力を信じひたすら念仏する行者が往生する浄土。
化土・方便化土・化身土:阿弥陀如来が方便として自力を交えて修する行者のために仮に現した浄土。善根を積むなどの自力を交える行者が往生する浄土。
真実信心でない人が浄土に生まれると、まず浄土の片ほとりにある化土に生まれ、この地に五百年とどまって修行しなくてはならない。
*極重の悪人:源信は「下品(げぼん)の人」の意味で使っている。親鸞聖人は聖者から凡夫にいたるすべての人の意味で、この言葉を使われている。
*摂取中:阿弥陀如来の摂取不捨の光明に照らされている中。
*無倦:疲れることなく
*摂取不捨:仏がその慈悲心でこの世の衆生(しゅじょう)を見捨てず、浄土に救い上げること。
*
*源空章
*
*法然(1133-1212):諱は源空。岡山県美作に生まれ、幼いとき父が殺された。父の遺言で15歳のとき比叡山に登り出家した。43歳のとき善導の著作である「観無量寿経疎」(観経の注釈書)の「散善義」を読み念仏の教えに帰した。51歳のとき比叡山を降りて、東山の大谷のほとり、吉水に庵を結んだ。66歳のとき「選択(せんちゃく)本願念仏集」(略して選択集)を選述した。75歳のとき四国へ流罪となり翌年帰京し、京都でなくなった。法然の下にはさまざまな階級の人々が集まった。
法然は「義なきを義とす」というわかりやすい言葉で念仏の世界を表した。すなわち「『義』とは『はからうこと』『自我への執着』であり、われわれ凡夫のはからいのないことが如来のおぼしめし、如来のはからいである。この『義』をすてて、『はからいのない人間』になるためには如来の大いなるはからい、すなわち、仏の智慧をいただくほかはない」と述べている。法然上人は「観無量寿経」と善導大師の「観経疏」に出会い「念仏しかない」と考えた。
道元は自分ではからいをするな、言葉で言うな、身も心も仏にまかせろ(心身脱落)という。心身脱落とは解脱のこと。一切のしがらみから脱し心身ともに自由無碍な状態。
親鸞聖人は法然の「義なきを義とす」を「自然法爾」(自力を捨てて阿弥陀如来の他力に任せきること)という言葉で表された。
本師源空明仏教(ほんしげんくうみょうぶっきょう)
憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんあくぼんぶにん)
真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう)
選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)
還来生死輪転家(げんらいしょうじりんでんげ)
決以疑情為所止(けっいぎじょういしょし)
速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく)
必以信心為能入(ひっいしんじんいのうにゅう)
「浄土真宗の祖師、源空上人は仏の教えを明らかにし、善悪一切の凡夫を哀れに思い、浄土真宗の真実の教えを世界の片隅にある日本で興された。阿弥陀如来の選択された本願を五濁に満ちた悪世に広められた。
迷いと流転の家に立ち戻らされるのは、疑う心を拠り所にしているからであり、信心に依れば、直ちに間違いなく静かな悟りの世界に入ると源空上人は仰っています」
『浄土真宗の祖師である源空上人は、仏教の教えを究めつくし、もろもろの煩悩にまみれているあらゆる善悪の凡夫を哀れみ救うために、浄土真宗の教行信証の教えを世界の片隅にある日本で興された。そして阿弥陀如来が選びとられた本願である称名念仏を濁りに満ちた悪世に広められた。
われわれ凡夫は迷いの世界で、生まれては死に、死んでは生まれることを限りなく繰り返しながらも、そこを離れることができずに立ち戻り住家(すみか)にしている。これはわれわれ凡夫が阿弥陀如来の第十八願を疑うからである。第十八願を信じる者はただちに煩悩の騒がしい世界を離れ、穏やかで静かな涅槃の都に入ることができる。』
*本師:本宗(浄土真宗)の祖師。七人の高僧。正信偈では曇鸞大師と源空上人に使われている。
*凡夫人:平凡な人々。仏道修行に十分な力のない人。
*真宗:道綽禅師が仏教を聖道門と浄土門に別け、さらに親鸞聖人は浄土門の中の真実の教えと言う意味で真宗と呼ばれた。
*教証:教行信証。釈尊の教え(教)によって、名号(行)を信じ(信)て、仏になる(証)こと。
*片州:片端にある島国。日本。
*選択本願:阿弥陀仏が選び取られた本願。法蔵菩薩がもろもろの仏の浄土の中で悪いところは捨て、良いところは選び取って創られた本願。法然上人は四十八願全体。親鸞聖人は第十八願。
*還来:行ったり来たりすること。
*家:生死を繰り返して離れることができない場所。
*疑情:本願を疑う心。為所止(けっちぎじょういしょし)
*楽:みやこ。無為楽とは寂静無為のみやこ。すなわち涅槃のこと。
*自然法爾:阿弥陀仏は、人がみずからのはからいを捨てて仏をたのむとき、これを迎えいれようと誓われた。みずからの善い悪いのはからいを捨てて、おのずから阿弥陀如来の本願力をたのみとすることを自然法爾という。人は常にはからいを捨て続けなくてはならない。そこに無心の世界、無分別の世界が開け浄土に往生できる。
*専修念仏(せんじゅねんぶつ):法然の説いた念仏を専修念仏という。
法然は観想念仏のできる人は少なく、大多数の人々は極楽に往生できないことになる。すべての人に平等に慈悲を与える阿弥陀如来がそのようなことをするはずがない。それに対し専修念仏(口称念仏)をすればいかなる凡夫・悪人・女人でも阿弥陀仏の慈悲により極楽往生できると説いた。
法然は仏教全体を聖道門(聖者への道)と浄土門(救済への道)に分けて、浄土門を取り、浄土門を雑行(ぞうぎょう、自力の混じる行)と正行(他力のみによる行)に分けて、正行を取り、その正行を助業(読誦、観察、礼拝、讃嘆供養)と正定業(称名:一心に「南無阿弥陀仏」を称えること)に分けて、正定業を勧めた。
*源空章の後半の四句は法然が信疑を決判されたところであるという。法然は「信」と「疑」という概念をはっきり区別して、われわれに示した。仏の智慧に対する疑いがすっかり晴れた状態をさして、信心を獲得したということができる。
釈尊以来悟りを得る道は自力修行による道と仏の慈悲による救済を信じる道の二通りに分けられる。大乗仏教は信心による悟りの道を明らかにした。浄土の教えはそれを受け継ぎ、法然まで伝えられた。法然は「仏教は念仏である」と説いている。阿弥陀如来の本願力による信心を得ると、これまで長い長い間六道を輪廻して来たこの身は、輪廻の道からはずれ、解脱し、極楽浄土に往生できる。このことは釈尊以来一貫して述べられてきたことである。
*親鸞聖人は従来の「一念」を「行の一念」(南無阿弥陀仏と称えること)と「信の一念」(真実信心)の二つに分けられた。親鸞聖人は「行信不離」ということをいわれる。如来の真実心が私のものとして受け止められたとき、私の信心となり、その信心は必ず「南無阿弥陀仏」という称名すなわち行となってあらわれる。「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることが極楽往生の業因となる。称名は正定業であり、往生が決定する業因となる。
*結讃
弘経大士宗師等(ぐきょうだいじしゅうしとう)
拯済無辺極濁悪(じょうさいむへんごくじょくあく)
道俗時衆共同心(どうぞくじしゅぐどうしん)
唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)
「菩薩や祖師たちは無量寿経の教えを弘められ、極めて汚れきったこの世の衆生を掬い取ってくださった。出家も在家もいつの世でも心を同じくして、ただただこれらの七人の高僧の教えを信じよう」
『これまで述べてきた竜樹、天親の二人の菩薩、および曇鸞、道綽、善導、源信、源空の五人の祖師たちは、無量寿経で説かれている阿弥陀如来の本願の心を明らかにして、汚れ切ったこの世で苦しみ迷う無数の衆生を救われました。私たちは、出家・在家を問わずいつの世でも、ともに心を一つにして、この七人の高僧たちの教えを信じ、その教えに従おうではありませんか』
*領解文:領解とは悟ること、会得の意味。
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけさふらへと、たのみもうしてさふろう。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とぞんじよろこびまうしさふろふ。この御ことわり聴聞まうしわけさふらふ事、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善智識の、あさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候。此うえは、さだめおかせらる々御おきて、一期をかぎりまもりまうすべく候」
*「人身受け難し、今己(すで)に受く、佛法聞き難し、今己に聞く。この身今生に向(むか)って度(ど)せずんば、さらにいずれの生に向ってかこの身を度せん」
参考にさせていただいた主な書籍(ありがとうございました。)
「正信偈に聞く」(桐渓順忍、教育新潮社)
「正信偈の教え」(吉田和弘、東本願寺出版部)
「入門教行信証 正信偈をよむ」(早島鏡正、NHK出版)
「正信偈新講」(金子大榮、あそか書林)
「浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)」(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社)
「真宗の教義と安心」(本願寺出版社)
「親鸞の告白」(梅原猛、小学館)
その他いろいろありますが省略。インターネットなどでも詳細な情報を得ることができる。