島根旅行記

 日和山城  田中梅治の話  後鳥羽伝説殺人事件  

 西蓮寺と浄泉寺 温泉津の浅原才市 功徳寺  三次市の歴史民俗資料館

 石畳で舗装された旧街道  二つ山城  仮屋胴鐸出土地と割田古墳  吉川元春の館跡と小倉山城 

 旅行後記  田中梅治の「粒々辛苦」の前書き  田中梅治の句碑建立のいきさつと祝辞

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 最近五年ぶりで十日ばかり島根の実家に帰省した。墓参りが主な目的で兄が脳卒中で倒れたのでその見舞いも兼ねていた。ついでに農作業用の軽トラを借りてあちこちいろいろ見て廻った。

 ある人を訪ねたら「これで北海道から来たんですか」と驚かれた。軽トラはスイッチ一つで四輪駆動にもなるから田んぼや狭い山道などでは威力を発揮する。田舎道をのんびり走るのにはちょうどいい。後ろからスピードの速い車が追いついてくると大抵は車を道の左に寄せてやり過ごした。

 普段から軽トラに乗りなれている地元の人は一時停止の標識も信号も何もない狭い田舎道を普通の乗用車並みにぶっ飛ばし、車を寄せるなんて丁寧なことは絶対にしない。

 軽トラは高速道を走るようには出来ていない。高速道だけは走りたくないと思っていたのだが、秋の日は短いので、やむを得ず走らなくてはならない羽目になった。私がたまたま走った高速道は片側一車線しかなくて、ところどころに後ろの車をやり過ごす退避場所があった。ときどきバックミラーを見ながら、内心「(後ろから追いついて)来るんじゃないぞ、来るな、来るな」と念じて走った。

 それでも追いつかれると退避場所まで必死の思いで車を走らせた。だいたい時速六十キロ位で走ったのだが、追いつかれると八十キロ位までスピードを上げる。そうすると車のエンジン音が高くなり、車が分解するんではないという恐怖に襲われる。さすが高速道を走るという物好きな軽トラには一台も出会わなかった。

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温泉津の浅原才市 (大田市温泉津)

 私の実家は浄土真宗で、浄土真宗では「極楽往生をするには、ただひたすら南無阿弥陀仏を称えなさい」ということを云う。この教えを心から信じて、ひたすら南無阿弥陀仏を称え、極楽浄土を願う人を「妙好人(みょうこうにん)」と呼ぶ。

 温泉津(ゆのつ)は明治大正の時代を生きた浅原才市(さいち)という妙好人を生んだ土地でもある。鈴木大拙という仏教学者が浅原才市のことをとりあげたので全国にその名が知られることになった。この旅行の目的の一つに浅原才市ゆかりの寺や実家を訪ねるということがあった。

 温泉津に着いてまず観光案内所に行った。ただ単に簡単な情報を仕入れるつもりであった。すると「無料で案内してくれる人がいますよ」という。これは便利だと思いお願いすることにした。しかしこの数分後には激しく後悔することになる。

 まず四、五人乗りのワゴン車くらいの大きさのバスが迎えに来た。それに乗り込むと町外れに連れて行かれ、約一キロほどの道を歩きながら出発地点まで戻るのだという。その間にあまり聞いても仕様のない町の歴史や神社仏閣、町並みの説明を受けることになった。肝心の浅原才市ゆかりの寺や実家にはなかなか行き着かない。

 適当に相槌を打ちながら私の日頃の薀蓄をそれとなく披露していたら、説明のし甲斐があると見込まれたのだろう、説明のルートにはない遠くの場所を案内するから、私の乗ってきた軽トラを走らせろということになった。行き掛かり上、無下に断るのも憚られたので、この人を助手席に乗せてその場所へ往復して、また時間を余計に食ってしまった。最後にやっと浅原才市ゆかりの寺と才市が住んでいた家の説明を受けて温泉津観光が終わった。

 予定外の時間を使ってしまったので次の目的地である世界遺産で有名な石見銀山へ急いだ。ところが石見銀山へ着いていざ写真を撮りまくろうと思ったら、たった一枚撮っただけで、デジカメの画面に「電池の残量が少なくなりました。充電してください」というメッセージが現れ、それっきり写真が撮れなくなってしまった。温泉津で調子に乗って写真を撮りすぎた報いが現れた。結局「石見銀山の観光は以前に一度やったことがるし、しょうがないか」と自分に納得させながら簡単に切り上げることになった。

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日和山城 (邑南町日和)

 実家から峠を越えた向こう側に日和(ひわ)山があってその頂上には昔、砦が築かれ、今でもその遺構が残っている。その山の写真を一、二枚撮りたいと思い、先ず日和の公民館を訪ねてその場所を聞くことにした。公民館は閑散としていて若い女の職員が二人、丁寧に対応してくれた。

 私がやってきた目的を話すと、なにやら電話し始めた。日和城についてよく知っている人がいるのでその人に電話したら、その人が私を案内してあげますと言っていると言う。なんだか様子がおかしくなったぞと思いながら、職員の書いてくれた地図を頼りにその案内人の家を訪ねることにした。

 道に迷いながら、ようやくその案内人の家を訪ねると、その人はなにやら書類らしきものを小脇に抱えて、道端に立って私を出迎えてくれた。その書類を広げ説明しながら、これからその城跡に行こうという。私は内心「ずいぶん親切だなぁ。それにしてもまぁそんなに遠くはないだろう」と思いながらその言葉に従うことにした。

 案内人を軽トラの助手席に乗せて少し走ると、猪よけだというフェンスに突き当たった。このフェンスは高さが百五十センチ位で、太さ一センチくらいの鉄筋を格子状に組んだものであった。私の家の近くにもあったので、聞くと広い町内全域にくまなく張り巡らされているのだそうだ。

 このフェンスの入り口を開けて百メートルくらい走り、山のふもとに着いたところで車を止めたほうがいいという。普段なら頂上まで車で行けるのだが、この前の大雨で道が崩れてどこまで走れるかわからないからだという説明だった。せいぜい二、三百メートルも歩けば目的の場所に着くだろうから、それもいいでしょうと軽く考えていたら実際は違った。

 歩いても歩いても道は続く。いい加減歩きつかれたところで、見るとはるか遠くに山の頂が見える、「あれですか」と聞くと「そうだ」と言う。私はがっかりした。今更引き返すわけにも行かず、そのまま付いていくことにした。

 それからの道は今までにもまして険しいものになった。道の真ん中に石がごろごろしていて歩きにくいことこの上もない。不安定な石に不用意に乗ってしまうと道路下の険しい谷底に転げ落ちてとても助かるとは思えなかった。

 やっとの思いで頂上にたどり着いた。そこは平らにならされていて、以前発掘した跡だという。神社があったので、下り道の無事安全を心から祈った。頂上からの見晴らしは非常によく、なるほどここに砦を築いたわけがよくわかった。案内人の説明では昔は頂上周辺の木が切られていて、もっと見晴らしがよかったということだった。

 悪路に悪戦苦闘しながらやっと軽トラに戻ると、今度はせっかく来たのだから、家によってコーヒーを一杯飲んでいきなさいといわれた。ここまで付き合っていながら今更断るのもなんだと思ったのでこれも付き合うことにした。クリームにステックシュガーもついた本格的なコーヒーだった。私がこれから行く場所を聞いて親切にその道筋も教えてもらった。

 翌日、私は菓子折りを持参してその案内人の家を訪ね深くお礼の言葉を述べた。

 島根の人は実に親切である。

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田中梅治の話 (邑南町鱒淵)

 私の兄嫁のおじいさんに当たる人は田中梅治という。明治大正と昭和の初めを生きた人で今の農協の前身とも言える「村農会」やその当時島根県内では二番目という信用組合を立ち上げたりして、ただひたすら貧しい農民のために尽くした。一方正岡子規に俳句を学び、ホトトギスに投稿したり子規の添削を受けたりした。ホトトギスの最初の頃の冊子が残っていたのだが、事情があって今では古本屋の店頭に並ぶことになってしまった。方言を集めた分厚い著作も残された。それは今私の実家にあるが、兄嫁は図書館などで引き取ってもらうようにしたいと言っている。

 民俗学者の宮本常一は昭和十四年頃、田中梅治のもとを訪ねて話しを聞き「忘れられた日本人」の中で取り上げた。最近出版された木村哲也の『「忘れられた日本人」の舞台を旅する。宮本常一の軌跡』の中でも取り上げられている。田中梅治の著作である米作行事を取り扱った「粒々辛苦」、畑作行事を取り扱った「流汗一滴」が昭和十四年頃渋沢敬三の運営する出版社から出版された。

 私の兄嫁の実兄に当たる人はもう亡くなり、その人の八十半ばになる奥さんが今は一人で兄嫁の実家を守っている。田中梅治は昭和十年頃「柚味噌会」という俳句会を作った。その仲間が建ててくれたという俳句の句碑が庭先に残っているのでその写真を撮りに行った。

 その実家のあり場所を聞きに近くの家に行ったら、たまたまその実家のおばあさんが茶飲み話をしに来ていて、家に帰るついでに私を案内しましょうということになった。

「どっからきんさったんか」と言われたので、

「中野の方からです。梅治さんの句碑があるそうですね。写真を撮らせてください」とだけ言った。私の兄嫁がこの家で育ったとは話さなかった。

 私はそのおばあさんの様子から

「ふぅんそうかい。物好きだのぅ。まぁ好きなように写真を撮っていきんさい」

と口に出して言わないまでも、そういうふうな感じを受けた。田中梅治の業績にも関心がなさそうだった。兄嫁が実家にはもう行きたくないと思う気持ちがよく分る気がした。

 梅治の句碑はもちろん、家や蔵などの写真をあちらこちら撮って帰った。私がそのおばあさんから受けた印象を兄嫁に話したら、「そうそうそうなのよ」といわんばかりの様子で笑った。

 句碑は近くの川から運びあげた何の変哲もない普通の石で、高さは一メートルくらいの三角形をしている。句そのものは風化が進んで読み取りにくくなっているものの子規が選んだ句で

 「馬追や 岡の小家の 角提灯」  薄墨

 という句である。薄墨は田中梅治の俳号である。

 

 梅治が残した書籍類は昔は専用の蔵に一杯あって、その重みで蔵が倒れたそうだが、そうした貴重な資料は今は何も残っていない。兄嫁の妹に当たる人が大阪に住んでいるが、そうした資料の一部が古本屋の店頭に並んでいて一万六千円で買い戻したことがあるそうだと兄嫁が話していた。

 ある人から次のような話を聞かされた。

 町の町長が鳥取県知事に会ったとき、知事から「あなたの町の先輩で、田中梅治と言う人がいますね」と言われて、町長は何も答えられなかったというのである。案外そんなものかもしれない。

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後鳥羽伝説殺人事件 (広島県高野町)

 後鳥羽伝説殺人事件という内田康夫の推理小説がある。テレビドラマでは浅見光彦役を中村俊介、刑事役を火野正平がやっていたと思う。陽一郎役は榎木孝明、母親役が野際陽子であった。その舞台になっている隣の広島県の功徳寺(くどくじ)を訪れた。

 例によって軽トラをのんびり走らせていると、後ろから追いついてきた車がある。軽トラを道端に寄せて道を譲ったのだが、相手の車も私の車に並んでぴたっと止まった。変だなと思いながら運転手側の窓を開けて「どうぞお先に」というつもりで手を挙げたら、向こうの車の女の運転手も手を上げる。ますます変なおばさんだなと思ったら、「ア・タ・シ」と言う。何でこんな山の中の田舎道で知った人に出会ったんだろうとよく見ると、変なおばさんに見えたのは私の実家の跡取り息子の嫁だった。

「何で今頃こんなところを走っているんだ」と聞くと、

「出勤途中」という。

 そうかそういえば彼女の職場は確か私が今日訪ねる予定の寺へ行く途中にあるんだなということにやっと気づいた。嫁の車はあっという間に視界から消えた。

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西蓮寺と浄泉寺  (邑南町阿須那・市木)

 功徳寺へ行く途中で、阿須那(あすな)の西蓮寺に立ち寄った。この寺は毛利元就の有力家臣である口羽通良が永禄三年(1560年)に建立した寺で、江戸時代には石見、安芸、備後に多くの門徒を持っていた。その山門は石見の三大山門といわれる山門のうちの一つである。一階部分の彫り物は丁寧にできているのだが二階部分はすかすかしている。予算が足りなくなって手抜きをしたそうだ。

 三大山門のうちのもう一つは町内の市木の浄泉寺の山門ある。残りの一つは浜田市内の寺にある。

 西蓮寺は険しい山道を登った峠近くにある。どうしてこんなところにと思うのだが当時は交通の要所になっていたんだろう。昔は主要な街道であったのに今は草に埋もれてしまった道が町内にはたくさんある。市木では昔の街道に沿って今でも町並みが時代に取り残されたように続いている。市木の浄泉寺も昔の街道のそばにある。二つの山門ともにその彫刻は見事なものであった。

 町内には修理保存に力をいれたらいいのになぁと思う寺や古民家や街並みがあるけれども無理だろうなぁ。

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功徳寺 (広島県高野町)

 西蓮寺を出て功徳寺へ向かう途中で、やむを得ず、フリーウエイという高速料金を取らない高速道路を走った。無料だけに多種多様な車がたくさん走る。大は大型輸送車やトラックから小は軽乗用車まで何でも走っている。しかしここでも軽トラには一台も出会わなかった。片側一車線なのでところどころにある退避場所に車を寄せて追いついてくる車をやり過ごしながら何とか無事走りきって功徳寺に着いた。

 功徳寺は言い伝えでは後鳥羽上皇が隠岐に流される途中、半年ほど滞在された寺であると言う。後鳥羽上皇が通られたという言い伝えは広島県側にはあちらこちらに広く残っているのだが、出雲に入るととたんにそんな話しはなくなるという。その寺の住職に運よく会って話を聞くことが出来た。しかし私が知っている以上の話しはたいして聞けなかった。そのお坊さんは「実は私もそのテレビドラマに出演したんですよ」と煙草をふかしながら話してくれた。ただ寺は少し高い丘の上にあって、そこの縁側から眺める広々とした田園風景はテレビで見たのと同じだなぁと感じた。

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三次市の歴史民俗資料館 (広島県三次市)

 その帰り道に三次(みよし)市の歴史民俗資料館に立ち寄った。この旅行の大きな目的の一つだったので期待していたが、休館日だった。せっかく来たのになんでだよと思ったがその日は月曜日で全国各地ともこうした施設が休みになる事をすっかり忘れていた。気を取り直して周囲の古墳や移築された古民家を見学して帰ろうと考えた。私と同じように曜日を間違えて見物にやってきた人がいたので聞くと、古墳はほとんど円墳だが中に一つだけ前方後円墳があるという。大いに期待して小高い山を登ったり下ったりして探し回ったのに見当たらない。もと来た場所に戻って改めて案内板を見ると、私が歩き回った場所のすぐ近くにその前方後円墳があった。普通前方後円墳といえば小さくても長さが百メートル近くはあるのを思い浮かべる。あれだけ歩き回っても見つからなかったのだから、よほど規模の小さいものだったのだろう。疲れていたのと時間も遅くなりそうなのでそのまま帰ることにした。

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石畳で舗装された旧街道 (邑南町市木)

 町内の外れにある山の中を、昔、日本海側の浜田藩と瀬戸内海側の安芸の国とを結んでいた街道が通っている。石畳で舗装されていて、当時は幅が三メートル近い立派な道だったそうだ。

 街道の近くに住んでいる人に聞くと、石畳が立派に残っていた部分があったのに、その部分を特に選んでその上にコンクリートを流して固めてしまったそうだ。基礎はしっかりできているのだから、さぞかしコンクリートを流すのは易しかったことだろう。コンクリートを流して固めた部分の終わりのほうに給水施設があるので、そこへ行く道を通りやすくするためにやったんだろうと話していた。その給水施設に行くのにはほんの少し遠回りだけれども立派な道が既に付いているので、別にわざわざ石畳の道をご丁寧にコンクリートで固めて新しい道を作らなくてもいいだろうにとも話していた。

 コンクリートで固めた街道の先にも道は続いていて、ところどころ石畳が地表に出ていた。更にその先は百メートルほどで道は笹薮の中に消えていた。少しでも文化遺産を残すように金を使えばいいものを、誰もありがたく思わないような使い方を何でわざわざ選んでするんだろうと感じた。

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二つ山城 (邑南町鱒淵)

 町内の鱒渕という集落の近くに二つ山という山があり、その頂上に砦の跡がある。頂上近くまで道がついており、日和山に登ったときとは違って、途中まで車で行くことが出来た。恐る恐るその道へ乗り入れたら、ところどころ先の大雨で道がえぐられて狭くなっている。こんなところで車が谷底に落ちて遭難しても、まず一ヶ月以上は誰にも気づかれることなくそのまま放っておかれるだろうなぁと思いながら最徐行で軽トラを走らせた。頂上付近に車が五台くらい止められる駐車場があった。そこからは細い急な坂道を登っていった。頂上には鉄製の見晴台があったが今は朽ち果てて横倒しになっている。頂上からの見晴らしはよく、街道を往来する人を監視するには最適の場所だと思われた。戦国時代の有力国人であった高橋氏の城であったが一五三十年に毛利軍に攻め落とされた。その後元の城主である出羽氏に返され、一五九一年に廃城になった。

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仮屋胴鐸出土地と割田古墳 (邑南町仮屋・森実)

 仮屋(かりや)胴鐸出土地と割田古墳も訪れた。

 町内に仮屋と言う部落がある。その部落にある高さが三十メートルほどの山林の頂上部を畑にしようと、地元の人が掘り返していたときに胴鐸が二個見つかった。大正の初め頃である。その銅鐸は今では東京国立博物館に収蔵されている。地元の郷土館にはそのレプリカが展示されている。島根の胴鐸といえば、最近になって賀茂岩倉遺跡から三十九個、荒神谷遺跡から六個発掘され有名になった。それ以前では県内で見つかったものはわずか七個。そのうちの二個がこの仮屋遺跡から見つかったもので貴重なものではある。

 割田古墳は個人の家の敷地内にあって、その持ち主に断って見学した。古墳は直径十メートルほどの円墳で頂上部や周囲は芝で覆われている。石室の入り口は露出していて外から石室の内部を覗くことが出来る。当然のことながら中は石組みが見えるだけで空っぽである。町の教育委員会の調べだと七世紀ごろに作られたものだという。近くには郡山(こうりやま)と言う名の部落が今も残っている。昔近くに郡(こうり)の役所があったのではないか、この古墳もそれと関連があるのではないかと思われている。

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吉川元春の館跡と小倉山城 (広島県大朝)

 毛利元就には主だった三人の息子があり、そのうちの一人が吉川家に婿に入った吉川元春である。その居館の跡を訪ねた。広大な敷地で、前面に築かれた石垣も見事なものだった。もっと広い場所もあるだろうに何でこんな山の中にと感じるのは今の世に住むわれわれが受ける感じであって当時はここが交通の要害であり、ここに館が建てられるのにはそれなりの訳があったのだろう。

  毛利元就の妻が生まれ育った小倉山城にも登った。この城は今でも交通の激しい幹線道路の側にあった。しかし十月の日暮れ近くこの城跡を訪れる物好きは私一人しかなく、車が百台以上も止められそうな広い駐車場には私の軽トラ一台しかなかった。城といっても立派な石垣があるわけではなく、砦といってもいいものである。石垣に囲まれた天守を持つ私たちが思い描くような城は戦国時代の終わりのわずかな期間に作られたものにすぎない。

 頂上は割りと低くてそう長い時間歩かなくて済んだ。そうは言っても頂上までは細くて険しい道が続く。頂上からの眺めはよく、城が築かれた理由がよくわかる。駐車場まで下りて案内板を見ていたら、軽トラが一台やってくる。おぉこの時間に物好きがまた一人やってきたと思ったら、傍らを通り過ぎて城跡のあった山の中に消えた。地元の人が農作業にやってきただけだった。

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旅行後記

 旅行中に田中梅治の書いた直筆の著作の後書きや前書きをコピーした。非常に読みにくいので、読みやすいようにパソコンに入れてみた。

 梅治の文章を読んでみて、もちろん私は業績も心がけもとうてい梅治に及ぶべくも無いものの一つ共通点があるのではないかと感じた。

 それは出来上がった文章にしょっちゅう手を加えるということである。

 私は一つの文章を書き終わった後でも、あの所はこう直した方がいいのではないか、このような言葉を付け足したほうがいいのではないなど頭に浮かんでくると、非常に落ち着かない気持ちになって、直ちにその部分を直す。したがって初めに人に渡した文章と最後の人に渡した文章とではかなり表現や内容が違ったものになることがある。一応渡し終わったあとでもこれを繰り返す。

 梅治の書いた「俚言之泉」やその後書きなどを読むと全く同じようなことが感じ取られる。 「俚言」とは「俗語・卑語・方言」を意味する。

 梅治は生まれ育った土地周辺の方言などを集めそれを「アイウエオ順」に並べなおし、「俚言の泉」と題した本を書き上げた。この本はただ手書きの本一冊のみで、今では全く人目に触れることもなく、私の実家にある。実家の兄嫁が梅治の孫だということでことで、実家で保管することになった。

 ところで、今の時代に生きる私にはパソコンがあるから、アイウエオ順を崩すことなく、一つの語句を入れたり消したりがすぐに出来る。しかし梅治の時代は毛筆と和紙の時代だから、ことはそう簡単にはいかない。一つの語句を途中に入れようにもアイウエオ順を厳密に守ろうとすれば初めから全て書き直さなくてはならない。こんなことを繰り返していたら一生かかっても辞書の編纂は終わらない。

 できるだけ多くの言葉を集めそれをアイウエオ順を崩さず辞書の体裁を整えようとした梅治の苦労は大変だっただろうと推察する。しかし彼は数年がかりで「俚諺の泉」を書きあげたそれでもアイウエオ順はばらばらのところがある。それを細筆一本でまとめあげた梅治の知的好奇心と努力に心から敬意を表する。

 この本をパソコンに入れプリントアウトし出来上がったものを手作りで製本して親しい人に贈った。一部は邑南町の図書館に寄贈した。が、まず人目につくことはないだろうと思う



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田中梅治の文章・「粒々辛苦」の前書き

 次の文章は昭和十四年に出版された「粒々辛苦」の前書きですが、戦前の文章の雰囲気が窺えます。カッコ内の読みは私が入れた)

 『序言

 アル動機ニ拠ッテ米ニ就テ一切ノコトヲ書イテ見様カト思ヒ付イテソレ以来毎日野ニ出テ鍬ヲ採リ、畑ノ草ヲ取リナドシツツ常ニ懐中シテ居ル手帳ニツケテ見タ。大凡ツケタト思ッテ、内ニ居ル時半紙ニ説明ヲ書イテ見タ。ソレヲ書イテ行ク内ニ前ニ手帳ニツケ残シタコトヲ想ヒ出シタリ、又新ニアレモアル、コレモアル、之モ米ニ関係ガアルナド、考ヘ出シテハ書キ書キ、其内ニハ愚見モ書キ添ヘテ見タシ、不平モ不満モ書イテ見タシ、其ノ手柄咄モ云フテ見タシト云フ様ナコトデ、随分長イモノニナッタ。見テ呉レハ人ガ飽キ飽キスルデアロウト思フガ、マーマー昭和十三年ノ七十一歳ノ老人ノ其時ノ心境ヲ書イテ置イタモノダトモ思フテ予ノ死后ニ見テ歴史ノ参考ニデモナラントクドイコトヲ書イタノガ即チ是デアル。

 昭和十三年八月十五日盂蘭盆ノ二日目ニ書キ終ッタ。

         田中梅治 

 附言

此書ハ予ガ子孫ニ書キ残シテ、米作ノ変遷ヲ知ルニ参考トスベキ様、書イタモノデハアルガ誰人ニテモ見テ呉レル人ガアレバ喜ンデ用立ツ積リデアルガ、余ガ粒々辛苦デ書イタ是ガタダ一冊デアルカラ御用立チシタラ早ク見テ必ズ早ク返シテ下サルコトヲ懇願シテ置ク。

 又是ガクドクドシク下手長イコトヲ書イテアルカラ央バニシテ見厭キ下サルコトガアルカモ知ラヌガ、中ニハ是非見テモライタイ部分モアルカラ、ドウカイヤニナル様デモ終リ迄見テ下サル様、懇願シテ置ク。

 只此一冊デアルカラ途中紛失シテモ遺憾ダカラ小包ニテ送ルニモ書留小包トシテ出スコトニスルカラ御返シ下サルニモ其御積リニ願イタイ。

 又甚(はなはだ)御迷惑乍ラ小包ガ着シタラ葉書ヲ一本着シタト御通知ヲ願イタイ。

 此書ヲ東京ノ渋沢子爵ノ所ニ送ッタ。同家ニ居ラレル藤木喜久麿ト云フ人ガ活版ノ原本ニ書キ添ヘラレタ』     

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田中梅治の句碑建立のいきさつと祝辞カッコ内の読みは私が入れた)

 田中梅治の句碑建立のいきさつについて、梅治自身が書いた文章がありますので引用してみます。

『昭和十三年ノ春田所敏斎主人前政市氏ハ予ノ為メニ句碑ヲ建テテヤルト云ワレテ、斡旋大ニ勤メラレ、役場組合学校其他有志ラ奔走シ寄付金ヲ募集セラレ、一方下亀谷ニ於テ句碑トナルベキ石ヲ捜シ求メラレ之ヲ揚ケテ、下亀谷松田裕道君ニ彫刻ヲナサシメ、昭和十四年十二月十日、予ノ庭ニ石ヲ曳キ帰リ、仝月十三日其建碑式ヲ仝氏斡旋ノ下ニ盛大ニ挙行シ下サリタリ。其際土佐氏ハ実ニ予ニ取リテ過分極マル開会ノ挨拶ヲナシ下サレ、前氏ハ左ノ祝辞ヲ朗読ナシ下サッタ』

*

『祝詞

 時今ヤ初冬ノ候ト云、陽光燦々トシテ肌ヲ照ス今日ノ吉日ヲトシテ田中薄墨氏ノ句碑ノ序幕式ヲ挙行セラルルニ当リ、此処ニ列スルヲ得タルハ余ノ欣快トスル処ナリ。

 思フニ氏ハ青春ノ頃ヨリ村政ノ事務ニ携ハリ、明治以来本村自治ノ発展ニ貢献セラレ、特ニ産業組合ノ創立進展ニ向ッテハ其心血ヲ傾注セラレタルガ如キ大事業完成ノ中ニ、忙中閑ヲ得テ氏ノ文学的才能ハ益々発達シ、俳句ニ到ッテハ明治革新俳句ノ草分ケトシテノ功労者ト称スベク中央著名ノ俳士諸先生ノ選ニ入リシモノ其数ヲ知ラズ。嘗(かっ)テハ柚味噌会ヲ創立セラレ其指導ノ任ニ当ラレ、今ヤ五星霜ニ及ビ句会益隆盛ノ域ニ達シツツアルハ全ク氏ノ指導ヨロシキニヨルノ賜ナリト感謝ス。茲ニ柚味噌会同人相計リテ句碑ノ建設ヲ企画シ大方諸彦ノ賛同ト支持ヲ得テ漸ク今日句碑ヲ見ル。眼前ニ仰ギ見レバ髣髴トシテ恰モ氏ノ立テルガ如ク語ルガ如ク、氏ノ徳イヨイヨ現ハレテ、山茶花ノ下後日此父祖ヲ偲ビ江湖ノ俳人杖ヲ曳キテ碑前ニ追慕セン。

 氏ヨ願ハクハ自愛余命ヲ保タレ、益句作ニ精進セラレンコトヲ。氏ノ名ハ句碑ト共ニ永久ニ朽チザルベシ。

聊カ蕪辞(ぶじ・整わない乱雑な言葉)ヲ述ベテ祝詞トス

 昭和十四年十二月十三日    柚味噌会同人総代  前政市』