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いつの時代かいうことがわからんが、そいだが、中野から川越(かわごえ)にむけて出るのに荻原横手(おぎはらよこて)(地図)いうものがあったが、あれが今頃でいやぁ、県道か国道いうような筋(道)だったけぇの。人がいっつも通るだけぇ、あれを、荻原山(地図)のふもとを通って、山越ししよったぁなぁ。
その荻原横手で、夜、『木び〜る』ちゅぅのがやりよったよの。
荻原山のその、立ちこもっとった木には、木の『ひ〜る』いうて、あの、田植えに足にさばって(つかまって)食いつくが。
あのとうの(通りの)ような、木におるやつだいうての、『木び〜る』だいうて。そいで、夜、『木び〜る』ちゅぅのがやりよったらしいよの。
そいでまぁ、一人なら話すこともないけぇだが、二人おりゃぁ話をせにゃぁ、だましって通ってもやれんけぇ、だいしょう(少しは)話をするけぇ、それが、人の声が聞こえたちゃぁな、木についとったやつがバタバタ落ちてからに人間へさばって食いついて、どがぁにもならん。
やれんけぇ、食いつくのをのがりょう(逃げよう)と思うにゃぁ、からかさをさしてなぁ、人が通りよった。そいでからかさの軒から(端から)落ちたぶんは、わが身へかからんが。そいで、そがぁしよった時代があるだぁ。
それが荻原山ちゅぅのが、どがぁしたことで火事になったか知らんが、七日七夜(なのかなのや)ほど燃えたげな。それが荻原山が焼けた途端に、まぁ結局その『木びる』ちゅぅもんが根絶えがしてしもうた。
その時代のことだが、やまんばあさんいうのが、荻原山へなぁ、こもんさった。あそこへ、あれがおれたちゅう大きな岩がある。いずれ(おそらく)、岩と岩との間に穴があるだろうと思う。その人が、機織を教えんさった。
昔、麻でよった糸で機(はた)を織りよった。手織りで織った残り糸を『はたせ』だいうていいよったが、そのはたせをまたつないで使やぁ使えると、そのつなぎ方や織り方なんかを、やまんばあさんがやってみせたものだけぇな。『はたせ織り』たらいうてなぁ。
そのばあさんが機を織んなさるのに、一晩で一反織りよった。だけぇ、たいしたものじゃぁある。
「境の戸をたっとけ(閉めとけ、たてておけ)」いうけぇ、
たっといて、かぁ、隙間からこうやって見りゃぁのう、そのやまんばあさあんがのう、麻(お)を、こう、ひきさぁちゃぁ、どうのうこうなぁ、ゆるい(いろり)へむいてくべるだげな。
「こんな、おばあさん、あんな麻を焼きよるが、どがぁしたことだろう」と思うて、思うた。
そいから、今度そがぁして、夜が明けてみりゃぁ、軒先へのう、物干し竿へむけて、いっぱい、白い布(きれ)がのう、干してあったちゅぅだ。
それが、やまんばあさんが来て機織を教えんさっても、
「わがいぬる(帰る)時にゃぁ、後姿をみてくれんな」いうてのぅ。
きんさる(こられる)ときは、わからんだけぇ。そいで、『いぬるときを見てくれんな』ちゅうて、いわれりゃぁ、見とうなるはなぁ。『ようみとけぇ』いわれりゃぁ、見ん(見ない)ようでもなぁ。
「風へ乗ってきて、風へ乗っていぬるけぇ、いぬる時は見てくれんな」いうて、いうやつう、
それが、だれだか知らんが、あれでもひょっと後ろへ向くかいう考えはないだけぇ、『ばあさんが、あがぁ言うけぇ』と、思うて、指をなめてなぁ、障子へこう穴を開けて、その穴から見たちゅぅだ。
ありゃぁ、来たときにゃぁ、結うとるように見えてもなぁ、いぬるときにゃぁ、髪をさばいて(梳かして)、いによった。
そしたら、それが恐ろしげな顔をしてなぁ、後ろへ向いてみて、それで、障子に穴を開けて、後ろから見たっちゅぅことを、おばあさんが知ってなぁ。そがぁやったら、機を織って物干しへ掛けてあった反物が、みなついていって、それぎりおばあさんがこんようになった。
荻原山が焼けたときに、やまんばあさんいうぶん(分、人)は、伯耆の大山(地図)へ向けて飛べたちゅぅ話を聞いたことがある。
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あの、原山(はらやま、矢上にある山の名)(地図)になぁ、横穴があるんよな。市木(いちぎ、地名)の浄泉寺(地図)の下までぇ続いとって、穴の奥では浄泉寺のお経の声が聞こえるということだが。
それをやまんばあさんが、あとさきしよった(行ったり来たりした)。そがぁに、おおけな穴じゃなぁ。入り口は両方から岩がこっちからもきとる、あっちからもきとる。岩と岩の間で、立っちゃぁ歩かりゃぁせん。ほうて(這って)でなきゃぁ歩かりゃぁせん。やまんばあさんいうても神さんだが、神さんだけぇ、狭いところへ、出たり入ったりしんさるだろうが。
あるとき、『へたすりゃぁ、はさまれるで』ちゅぅようなことを言うけぇ、いなげで(少し変わっていて)、入るのも恐ろしゅぅあるが、まぁ、『あがぁなこたぁない』言うて入りよった。
入ってみたら、奥に、岩と岩との間に、八畳敷ぐらいあるだけぇなぁ。そこへ山婆(やまんばあ)さんが寝よったんだげな。。
昔は田植えは、手で苗を植えたけぇな。水苗代へ、もみを降ろして、苗を育てて、その苗を、本田(ほんだ)へ植え替えをしよった。矢上(地名)のかしらに(上のほうに)大石ちゅぅ大百姓(おおびゃくしょう)の家があるんだが、ようけぇ、作りよれたらしい。そいで、人を大分頼んで、田を植えよられた。
むかしゃ、田植えに頼んだ人を、食べさせよったけぇな。朝飯と昼飯を十時ごろと二時ごろと、そいから夕方帰るときに食べるけぇ、四回食べさせた。毎年人を頼んで植えんさるだが、それにゃぁ、『あんばい胴頭(どうがしら)』いうて、いっさいの田植えの世話するものがおる。それが、炊事のほうへ、
「今日は早乙女さんを何人頼んどるけぇ、何人分の支度をしといちゃんさい」いうて世話をする。
それから、今度、田植えの『おなり』いうものが、おなりいうものは、どがぁいうてええかな。今頃の料理人やな。そのおなりいうものが、そいだけの支度をするんだが、どうしても一膳、膳が残るだぁの。そいで誰がその一人おらんかわからんのよ。どうしても。昔ゃ、綱引きだけぇ(綱を引いて苗を植えるので)、休みよっただが、その時にみりゃぁ、いっそ誰こそ知らん人がおらんし、またかごんで植えりゃ、なんだ、ええ声をして歌を歌うて、田もよう植える。田植えのてご(手伝い)をして、こんど飯にしよういうときにゃ、また膳が一膳残るんだなぁ。だれがおらんのかわからんのよ。それがやまんばあさんがいつもてごをするんだいうことを聞いとる。
その家で、大きな羽釜[1](はがま)でご飯を炊くんだが、そうしたらな、米を三粒入れてしゃもじで混ぜたら、やまんばあさんのしゃもじでまぜたらな、お釜一杯に盛り上がるほどにうまげな(おいしそうな)ご飯ができる。それで、旅の人が来て、泊まって、その人にその話をしたら、
「こりゃぁ、おかしい。そんなことはない。あがぁなことはあるものか」いうて、言う。
他のしゃもじを持ってきてまぜたら、ちっともご飯が増えんだそうな。そいからそのしゃもじで、混ぜたらまたいっぱいになってなぁ。そいで、
「こりゃぁ、不思議だ。こがぁなものを、田舎においちゃぁもったいない」
そいから広島の宮島へ持っていって、厳島神社に今もそれが飾ってある。それで山婆の絵もその神社にある。そこにあるしゃもじが、もともとここのやまんばぁさんの、しゃもじだそうだ。
あるとき若い者がやまんばあさんが蓑を着て、菅笠負うて、原山向いて、いにんさる(帰っていかれる)後をつけてみたところが、ついそこを上がりよるだが思うても、いっそなかなか追いつかれんだった。
やまんばあさんのおれる間は、それの米のとぎ汁が原山の谷から流れてきて、みな、たいそう米を作らしてもらいよった。あれがおれんようになれてから、どだいここのほうの田ができんようになった。やまんばあさんが田植えのてごにでれんようになってから、その家の財産がみてた(なくなった)いう話だ。
チヨおばあさんいうておばあさんがおられたが、そのおばあさんにやまんばあさんが、
「原山の木を切ってくれるな。木を切ってもろうたら、自分のおるところがなくなるから、木を切らずにおいてほしい」いうて、枕上(まくらがみ、枕元)に立って言えた。
「わしゃぁ、原山へ往にたい(いにたい、帰りたい)だが、あこの木をみな切っとるけぇ、自分の居るところがないけぇ、往なれん。原山に木がたったら、わしゃぁ往ぬるけぇ」いうて言えた。
そうから、あのおばあさんが、あこを、今木がたっとるところを、大正の末ごろ、三十円ほど出して、あれほど買うてあげんさったよな。そいからやまんばあさんののぼりを買うてな。のぼりもありよった。そいから原山へ向いて鳥居を建ったりして。それで、そのおばあさんの山は木は全然切ってない。チヨさんが死なれてからもう五十年ぐらいになるだろう。やまんばあさんが戻れたやら、戻られんか、わからんがなぁ。
矢上(やかみ、地名)の荻原(地図)(荻原横手の荻原とは別)じゃぁ、やまんばあさんのお祭りをしよれたんよなぁ。やまんばあさんの田植えだいうて、ものすごう盛大にやってな。そんからなんだぁな、たいそう早乙女衆を、ほかから頼んだり、そいから牛も来るやらしてな。にぎやかに田ぁ植えてな。
やまんばあさんの祭りだいうて、なにしよったんだが、今頃はあがぁなことはせんよのぉ。
(編集者注:
原山周辺では、昔(特に江戸時代)、砂鉄を取るため鉄穴(かんな)流しが盛んに行われ、そのため木が伐採され、山が荒廃し、田もやせて米が取れなくなった記憶が「やまんばあさんの田植え手伝い」の話の中にこめられているのだと思います。原山周辺の鉄穴流しについては島根県邑智郡邑南町の教育委員会に問い合わせると詳しいことがわかります)
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原山(矢上にある山の名)のやまんばあさんが、茅場(かやば・中野の地名)(地図)の奥のほうの有名な大工に
「おまやぁ日本一の大工いうだが、わしと競争しようじゃぁなぁか」
「そりゃぁやろう。わしゃぁ、三重の塔を一晩のうちに建ってみせる」いうて、大工がいうた。
そいからやまんばあさんがなにをしなるか(されるか)いうと、
「わしゃぁ、そこの原山を、一晩で布を織って、まぁて(巻いて)みせる」
「よし、そんならやろう」いうことになって、
そいから競争し始めて、大工は賀茂神社(中野にある神社)(地図)のところで、あれが、あこで、やったちゅぅだけぇ。それが、あの、大工の削った木はみな、こけらがみな仕事をしよった。こけらいうたら、斧で削った木のくずよ。こけらやかんなくずやら、あれがみな、大工の弟子になって、すぐ仕事をしよった。人間のようにの。木の削ったやつがの。そいから、もうひとつ削ったらもう一人、二つでたら、二人。そいで、どんどん手伝って作る。それで、一晩のうちにたいがい(大概、おおよそ)やってしもうた。
それで、いよいよ、たいがい出来上がったいうときに、
「どがなぁろうかなぁ、わしもよほどやったが、やまんばあさんはどがぁしたか」思うて、こう原山をみんさった。ほいたところが、やまのすそが真っ白だった。
「あぁ、もうばあさんは、白い布を織って、山を巻いてしもうとる」
「やれ、こりゃぁしもうた。わしゃぁ、負けた。情けないのぅ。こりゃ、ぼやぼやしとったらばあさんが来るけん、あれがこんうちに、今のうちに逃げちゃろ」
最後のくさびをひとつか二つ、うちこめば出来上がるいうときに、よう打ち込まんこうに、逃げたいうだ。大利の峠(おおりのたお、中野から日和(ひわ)へ抜ける峠)(地図)を越して、どんどん逃げたら、川戸(地名)(地図)へ出たが、気が付いてみりゃぁ、まだの、お月さんがおりんさった。まだ、夜が明けちゃぁおらんだった。それで、
「まだ、月の夜か」いうてびっくりした。
それで、『今田』いうところと『月の夜』という部落が並んであるよな。もうちぃっと、ありゃぁ、なにしとりゃぁ、三重の塔がの、完成して永久に残ったんだが。
原山が真っ白だったいうんだが、ほいたところが、ようみりゃぁ、朝のもやがなぁ、いっぱいかかとった。大工はあわててみたけぇ、その霧が布に見えたんだぁな。
そのときの建物の扉が一枚、わしのおじいさんとこに、あるけんいうことだった。わしに、いっつもいいよられたんだけぇ。あすこのやびら(屋根の軒先)の上にそのときの大工が作られたときの戸が一枚あるけぇ、いうことだ。
そいだが、『昔のものだけぇ』皆はあれへさわられん。わしらぁ『見せてもらいたいのぅ』いうて、いっつも子供の時分にいいよった。
そいで、家を解体するときに、わしも手伝いいったし、『あれがありゃぁせんやら』と思うて、よほど気をつけておったんだが、確かに、そのものはあるにはあったんだが、ように腐ってしもうとったんだな。それぽっちり。
(編集者注:
1.大工は『飛騨の匠』『左甚五郎』が多い。大工が建てたものは『お宮』『御殿』『寺の門』『橋』『千軒の家』『五重塔』『山城』『六角堂』など、逃げた場所は『川戸』が一番多くて、他に『市山』『牛の市』『鹿賀』などがあります。
2.未来社発行の「日本の民話34石見編」のなかに「やまんばあさんの田植え手伝い」「やまんばあさんの腕比べ」の二つの話が、「山婆の手つだい」「賀茂神社の三重の塔」の題名で採用されています)
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そりゃぁなぁ、まぁ、あるところに、別嬪さんがおった。そいで、ある男が、それを、欲しゅぅてならん。ええ女だけぇ、欲しゅぅてやれん。そいだがなかなかもらわりゃぁせんし、しとったところがまぁ、両方が好きおうて、一緒になった。ところが、またとなぁ別嬪さんだけぇ、その女ばっかり見て、まぁ仕事をせん。
そいで、仕事をせんじゃぁやれんけぇ、いうことで、畑へ女の絵姿をもっていって、仕事をさした。
したところが、まぁ、ある日、大風が吹いてその女の絵を吹き飛ばしたんだな。その絵がお城の殿さんのところへ飛んでいって、殿さんがその絵をみたところが、
「こがぁにええ女なら、わしも見たい」いうことになった。
そいからその殿さんが、女におうて(会って)、こんどはその殿さんが、女をほしゅうなって、無理やりだぁな。殿さんはその女を男から取りあげたわけよ。
貧乏人の百姓と殿さんだけぇ、仕方ない。したところが、女は、貧乏な男のほうが好きで、どうしても、殿さんのところへ行っても、ええ顔ができん。ひとつ笑わしてみしょぅ思うても、どうしても笑わん。
殿さんは笑う顔がみとうてみとうてならん。そいで女を男のところへ連れて行ったら、そうしたらまぁ、女はうれしゅぅてならんで、笑うたが、まぁ、その笑うた顔がとてもかわいい。そいから、殿さんのところへ連れて行って笑わしょぅ思うたが、どがぁしても笑わん。
あるとき、その貧乏な男が、女にあいとうてならんで、唐津物(焼き物)をかたぁで(かついで)売りぃ、殿さんのところへ行って、そいで、
「唐津はいらんか、よいしょよいしょ」いうて言うたところが、
そしたら、その女が、まぁかわいいかわいい嬉しげな顔をして笑うた。それで、殿さんがま一度、いまの笑い顔を見よう思うて、殿さんが貧乏な男の着物を着て、その男には殿さんの着物を着せて、殿さんが、
「唐津はいらんか、よいしょよいしょ」いうたら、女がまた喜んで笑うた。
ところが、殿さんが貧乏な男の着物を着て、唐津物を売る格好をして
「唐津はいらんか、よいしょよいしょ」いうていいよったら、門番が
「ここは、お前のようなものを入れられりゃぁせん」ちゅぅて、城の外へ追い出した。
そいで、もとの貧乏な男は殿さんの着物を着て、殿さんになって、女と楽しゅぅ暮らしたそうだ。
おばあさんに『源蔵変わりした』いうことを聞いたことがある。その人がころっと変わるのを『源蔵変わりした』いうんだが、殿さんが貧乏人の格好をして、貧乏人が殿さんの格好をして、ころっと変ってから、そのときから言い出したいうて、おばあさんが言いんさった。
太った人がやせりゃぁ、びっくりするほど変るし、痩せた人が肥えりゃぁ(太れば)きれいになるがな。そいうところで『源蔵変わりした』いうことを使うんよの。
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『鰐(わに)に影を飲まれるな』いうことをよく言うわな。鰐が人間の影を飲んだときにゃぁ、何故か必ずその命を、鰐が取るんじゃちゅぅよな。鰐に影を飲まれりゃぁ、鰐がこのものを取って、自分のえさにする、鰐が狙いを定めた場合にゃぁ、必ず、何かの機会にやるんだちゅぅことよ。
ある強い侍が、
「その鰐をわしが退治してやろう。それは、わしが受けおうてやろう」いうて、
それから、そのものが弓を放ぁたところが、鰐に命中して、鰐はとうとう死んだちゅぅ。あるとき、その侍が、旅をして舟に乗っておったところが、その舟の中で、侍が鰐の骨で何かこさえたちゅぅんだ。
その侍がいうたことには、
「お前、人をたくさん殺してきて、とうとう、お前も、わしが弓矢には勝てだっただろう」いうて、鰐の骨でこさえたものを蹴飛ばしたちゅぅんだ。
ところが、蹴ったのはいいが、蹴りそこのうただろうてぇの。足の指先のほうへ傷をこさえた。傷をこさえて、それがもとで、とうとうその侍は死んだちゅぅんだ。
鰐が一度狙うたときにゃぁ、その鰐が死んだあとでも、災いをするちゅうことだな。
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ありゃぁの、真宗じゃぁないらしい。禅宗でのぅ。昔は問答だいぅてのぅ、ありよったいうてのぅ。その、坊さんが歩きよって、問答を向こうのお寺へ言いかけて、そいから問答で負けりゃぁなぁ、寺の明け渡しをせにゃぁならん時代があったいうんだぁな。
『そもさん』いうのが問題を出すほうで、『せっぱ』いうのが問題を解くほうの人がいう、ちゅぅような、問答のしきたりがあったわけだぁの。
「そもさんに来た」言う。
「それじゃぁせっぱだ」ちゅうんでのぅ、やりよったもんだてぇの。
そいだけぇ。手をつこうたり、足をつこうたり、丸いものはまんじゅうだいうてみたり、四角なものは豆腐だ言うてみたり、ことわざを言うてみたり、いろいろしよったもんだぁな。そりょをよう解かんときにゃぁ、もとからおった坊さんが寺を出て、そりょを、来たぶんがな、問答で勝ったちゅやぁ、それがお寺を取る、取るいうか、居座りよっただぁの。
ありゃぁ、どこの寺での話しだやら知らんが、そのお寺の和尚さんがなぁ、はぁ、二代も三代も、おおかたやりよりんさっただろうが。問答をするぶんに、前うちちゅぅのがあるらしんだなぁ。そりゃぁ、和尚さんがおるかおらんか前うちをして、おってなら、いつ行くか、いうことがあるらしい。
で、その、あるお坊さんが問答に来たんだが、そいだがそこの寺の和尚さんが、問答に負けて、逃げとうなぁけぇ。寺の門(かど、前)のついそばにまんじゅうや、やらなんだやらあったが、そのまんじゅうやに和尚さんのいうことにゃ、
「お前が、和尚になって、あこでわしのかわりをやってくれぇ。黙って座っておりゃぁええし、お前が負けたぶんは、お前が逃げりゃぁええだけぇ。逃げてまんじゅうやをすりゃぁ、ことはなぁ(たいしたことはない)けぇ。わしゃぁここが逃げとうなぁけぇ、お前、和尚になってくれぇ」言えたいう。
「そんなら、そがぁしよう」いうことで、まんじゅうやが、和尚さんのなりをして、和尚さんがまんじゅうやのなりをした。
そいからまんじゅうやが和尚さんのなりをして、座っておったら、問答を言う坊さんがやって来て、はじめはいろいろ聞きよったんだが、まんじゅうやがなんもいわんもんで、坊さんがこがぁして、両手の指でこまい丸をしたいうてのう。そしたら、まんじゅうやが、両手で大けな丸をした。したところが、相手の坊さんが、
「ハハッ」というて、恐れいった。
そいから、こんどは、坊さんが両手を広げて突きだぁたもんで、まんじゅうやが、片手を突きだぁた。したところが、また、
「ハハッ」と言うて、恐れいった。
そいから、こんどは、相手が指三本伸ばぁたもんで、まんじゅうやが、あかんべぇたれをしたら、その坊さんが逃げてしもうた。
そいで、まんじゅうやのなりをしておった和尚さんがまぁ驚いてなぁ、その逃げた坊さんに問うたところが、坊さんのいうことにゃ、
「わしがはじめ、いろいろお尋ねしましたが、何もお答えないもんで、さては『無言の行』の最中だと思いましてな。そこでこまいまるをして、
『和尚の胸の中は』いうて問うたところが、和尚さんが大けな丸をして『大海の如し』とおっしゃられまして、
『十方世界[2]は』というて問うたところが、今度は『五戒[3]で保つ』とお答えになりまして、
もうひとつお聞きしようと
『三尊[4]の弥陀は』というて問うたところが、たちどころに『目の下にあり』とおっしゃられて、
まことにわしなどとうてい遠くおよばず、修行して出直したいと思うております」と言うて逃げたちゅうだぁの。
ところが、まんじゅうやがいうことにゃ、
「あのやろう、どこかのまんじゅうやのまわしものだろう。初めはいろいろ話しよったが、わしがだまっとるもんだけぇ、あのやろう、わしの顔をみて、わしがまんじゅうやだちゅうことを知ったんだな。
はじめ、こがぁして、こまいまるをして、
『お前んとこのまんじゅうはこまいだろうが』ちゅぅて言うから、『そんなこたぁなぁ、大けぇ』ちゅうたら、こんだぁ
『十個でいくらだ』と聞くもんだで、『五百文だ』ちゅぅて、ふっかけてやった。そしたら
『三百文に負けろ』ちゅぅて言うもんで、『あかんべぇ』してやったら、あのやろう逃げやがってからに。
覚えとれよ、こんどきやがったら、しごをしちゃるけぇ」ちゅぅていうたそうだがの。
まぁそういう話だぁの。
(編集者注:有名な落語の「こんにゃく問答」の民話版で、民話そのものとは言いがたいものですが、『石見町民話集』の中に収録されています)
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